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月の天女

月天図 (無落款) 34×78 06011

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月天は、「十二天」(八方位と上下の他に、太陽と月をも加えた十二の方向を象徴し神格化した十二人の仏法の守護神)に属する「天部」の一人です。

その「十二天」の図(十二天図:灌頂という密教寺院での儀式に用いられる法具)は通常、十二枚の屏風や掛け軸を一組として描かれる仏画群で、日本では平安時代初期頃からの作例があるそうです。

しかし、ここの月天の胸像の様に写実的で優雅な画は、十二天図としては他に類を見ませんし、これと組になりそうな他の「天部」の画も見る事がありませんので、おそらくは儀式の法具としてではなく、始めから貴族の念持仏などの様に独尊像として描かれたのではないかと思われます。

仏画なので作者は不明(厳密な制作年代も不詳)ですが、こんなに優しそうで神秘的な天女を見れば、古の人々も心惹かれ癒やされていた事でしょう。



【参考で、ウィキペディアでの「月天」の解説を下に引用します】

月天(がつてん、がってん、Skt:Candra、音写:戦達羅、戦捺羅、旃陀羅など)は、仏教における天部の一人で、十二天の一人。元はバラモン教の神であったが、後に仏教に取り入れられた。

正しくは月天子で、月天はその略称。月宮天子、名明天子、宝吉祥との異名もある。やその光明を神格化した神で、勢至菩薩の変化身ともされる。四大王天に属し、月輪を主領して四天下を照らし、また多くの天女を侍(はべ)らし、五欲の楽を尽くし、その寿命は500歳といわれる。

形象は、一定しないが3羽から7羽のガチョウの背に乗り、持物蓮華や半月幢を持つものがあり、として月天后を伴うものがある。両界曼荼羅や十二天の一人として描かれることがほとんどであり、単独で祀られることはほとんどないようである。



なんと、元来の月天は、男神だったと・・・






by Ru_p | 2018-03-22 12:15 | アート・コレクション | Comments(0)

だるまさんが・・ (北斎)

達磨図 北斎画   15003 28.1x19.8 紙本
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達磨は中国の禅宗の開祖とされていて、インド人の仏教僧でした。
現在まで残っているのは僅かですが、北斎は、その生涯に数多くの達磨図を、好んで描いていた様です。
(北斎は、妙見を始め様々な仏尊を信仰し、また描いてもていた様ですが、彼自身の仏門の宗派は不明らしいです)


北斎は、この様なヒゲ面でとぼけた雰囲気の顔(ちょっと顎を突き出す様なしぐさ)の人物を多く描いていました。
現存する自画像や肖像とは違う様ですが、実際の北斎自身の雰囲気(又は、その内面)がこんなだったのではないか(?)と想像してしまいます。人物画が描く人自身に似て来るのは自然な事なので、場合に依っては『眼瞼下垂』(まぶたが下がりがちになる症状)があった可能性も考えられます。また、寛いだ雰囲気の画に特にそれが多いので、画業で日頃頭部を前傾させる事が多かった彼には、首の凝りを癒すために、頭を後方に反らせて休憩する習慣があったのかも知れません。




線が雑に見えますので「席画」として描かれた物でしょうか・・・
(落款・印章から北斎五十代始め頃の制作かと思われます)











by Ru_p | 2015-06-13 00:11 | アート・コレクション | Comments(0)

お釈迦さまの・・・?

清凉寺式釈迦如来立像図  紙本肉筆(紺紙金泥/無落款) 10.8×25.4cm (15006)
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A4サイズに収まる本紙をスキャン(上)して、編集ソフトで鮮明に処理(下)してみました。
(顔などの皮膚には金泥が塗られていますが、色調の厳密な再現は難かしく・・)
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 「清凉寺式釈迦如来像」は、
お釈迦さまの生存中にその姿を、古代インドの優填(うでん)王が栴檀(せんだん)の材にて造らせた(①)と言われる伝説の像が、後に中国に運ばれ、更にその模刻(②)が、東大寺の学僧 奝然(ちょうねん)によって、西暦986年に中国から日本にまで運ばれ(現在は清凉寺に安置されているほぼ等身大の立像)それを基に、その模刻(③)が更に各地に伝え広められたと言われる壮大な由緒をもつ釈迦如来像の事なのです。
(お釈迦さまの姿のコピーのコピー・・・の像で、改めての仏教の基本情報が伝来)

上記①のコピーは、実際に存命中に行われたのでしょうか?/その像は全く現存していないのでしょうか?

お釈迦さまは、紀元前5世紀ごろの北インドの人で、悟りを得て「仏陀」と呼ばれる様になった仏教の開祖です。その弟子達への教えでは、修行によって悟りを得る事を目標とし「偶像崇拝」はさせなかったらしい(本来の仏陀の教えは、「信仰」と言うよりも「哲学」の性格が強かった為)のですが、歿後に時が経つにつれ、教えの解釈も変わり、救いを求める人々はお釈迦さまの姿を模した像や遺骨に何らかの霊的な力を期待する様に変わって行った様です。ですから、仏像としての釈迦像が造られたのは、実際にはその没後5世紀以上経ってからと言う説が一般的で、優填王の伝説の像がお釈迦さまの存命中に作られたと言う伝説は、残念ながら今日では必ずしも有力な説ではない様です。

清凉寺に置かれている(上記②の)釈迦像は、「三国伝来の釈迦像」として尊ばれ、お釈迦さまの没後15世紀近く経っていた平安期には、仏教(当時の大乗仏教)を原点から見直す釈迦信仰を大いに盛り上げ、鎌倉期頃までは盛んに模刻が行われた様です。(模刻の行為も仏陀のクールな教えには反しそうなのですが・・)

清凉寺の釈迦如来像には、インド、ガンダーラ風の特徴(縄目状の頭髪や、通肩〔つうけん:両肩を衣に通す姿〕の衣に深く刻まれた流水線状の衣文等)が有るそうです。その仏像の伝搬のルートが「北伝」と呼ばれて中央アジアを辿ったことから、日本に仏教が初めて伝えられた頃に伝搬されて来たと考えられている東南アジア経由のルート(南伝)の様式とは学術的には区別されているのだそうです。
(清凉寺の釈迦如来像は、歴史資料としても重要な為、現在国宝に指定されています)

鎌倉期頃までの作で現存する清凉寺式釈迦如来は殆どが木彫で、意外なことにこの様な仏画での遺例は稀らしく、金蓮寺(京都)・西大寺(奈良)・根津美術館(東京)で所蔵されている他には、確認されていなかったのだそうです。
(大乗仏教の阿弥陀信仰が盛り返えしたとしても、清凉寺式釈迦像の模刻は鎌倉期でも盛んに行われていたはずなので、探せばまだまだ出てきそうな気もしますが)


上の画は、清凉寺の釈迦如来像(又はその模刻)を高度な技術の絵師が、小さな画寸の中に極限まで細密に縮小して写し取った物(上記③に相当する像高約14cmの6頭身像)の様です。高価な料紙や絵の具を含めて、極めて完成度が高い事から、おそらくは高貴な人物の念持仏(個人が身近に置いて礼拝する為の仏像)として特に丁寧に作られた物だと思われます。
(掛け軸状態ではなく、薄板に張って折りたたまれた形の表具なので、絵の具の剥落は少ないのですが、本紙は脆化が進み、割れや剥がれ落ちた部分が見られます。顔などには金泥による少し雑な修復跡があり、それ以外の本紙部分を見ると、特に細かい亀裂があるので、年代測定はしていませんが時代的な古さには期待が持てそうです。ただ、細かいので今後の修復には苦労しそう・・)

この顔の表情には、慈悲深さや落ち着きのある「和」の雰囲気も感じらるので、見ていて気持ちが癒やされます。
(今日と違い、誰もが気軽には目に出来なかった時代の遺物かと思うと、何だか更にありがた・・・ )
























by Ru_p | 2015-05-05 23:53 | アート・コレクション | Comments(0)

獅子の仏画 (道周)

獅子と??  鬼頭道周 筆  07026  42x121
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この取り合わせでの仏画の人物だと、文殊菩薩なのでしょうか?体には臂釧,腕釧などの装飾品を身につけていて衣服はぼろぼろ。、羅漢の様でもあり、、よく解りません。

獅子は、その元はライオンのことですが、日本に伝わってきた当時には、中国でも生息してなかったので、想像上の「伝説の生き物」と捉えられていたのだそうです。「唐獅子」とも呼ばれていたり、神社などの狛犬の角のない方がその古い姿を伝えているそうで、猫科には見えますが、ライオンには見えません。

この画の獅子は、みすぼらしい(羅漢風の)老人に甘える毛玉たらけの動物で、形は猫の様に見えますが、表情はアニメチックで犬の様です。獅子も人も表情が魅力的だと思いますが、「写」とあるので元画がどこかに現存しているのであれば、比べてみたいものです。

一般的な仏像では、文殊菩薩は獅子に乗って、独尊又は釈迦三尊で、年齢も稚児から大人までと幅広いのですが、この様な老齢の姿の例は知りませんので、根拠が気になっています。 

画はおそらく大正~昭和初期だろうと思うのですが、詳しい資料が無いので定かではありません。








※鬼頭道周:明治~昭和初期に活動していた画家ですが、作品は、あまり多く残ってないようです。








参考;文殊菩薩と獅子との珍しい組合せでは、下の造像例があります。
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文殊菩薩持獅立像;木彫一木造り乾漆
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文殊信仰が盛んだった中国四川省の寺から伝わった物だそうです。

















by Ru_p | 2013-06-09 18:42 | アート・コレクション | Comments(0)

魚籃観音 (の2)

07014
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魚籃観音は、本来はこの画の様に、魚の籃(かご)を持つ美女に変化したとされる観世音菩薩の姿を表した仏画なのです。

この画には、多くの仏画と同様に落款はありませんが、見事な筆遣いの描線や使われている高価な岩絵の具などから、江戸初~中期の名のある絵師の仕事と思われます。
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下膨れの顔や、切れ長で吊り上った一重の目など独特の雰囲気は、時代的には「白隠」の観音図にも影響を与えたのではないか?とすら想像されます。

魚籃観音の説明はここでも











by Ru_p | 2013-02-12 13:41 | アート・コレクション | Comments(0)

不動明王と滝 (室生寺)

不動明王立像図  10011    34.1×84.4 紙本肉筆

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長い間『香』の煙で燻され続けて来たらしく、全体に黒っぽく不鮮明になってしまっています。
(香の煙のヤニならば水で丁寧に洗えば、成分が溶け出るので、もう少しは鮮明になると期待出来ますが・・)





取りあえずパソコンで画像調整する事で、下の様に細部まで見える様になりました。



















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(青不動だった様です)
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(とても古い物らしく、損傷が酷いので修復が必要なのですが、資料性を考えると、表具を含めてなるべくそのままの状態が残る様に保存すべきかとも思われます)

この画像を見て先ず気付いたのは、不動から見て右手側後方に滝があり、不動が立つ岩(磐石)の周りにも水が満ちている様子に描かれていることです。
不動明王(※1)は滝や水と縁がありそうな印象があるのですが、こうして一緒の画に描かれている例は必ずしも そう多くはないようです。

日本では古くから、滝の近くに「水神」として不動明王を祀る習慣がありましたので、この事と深い関係が有るのではないかと考えられます。

サンズイに「龍(竜)」の字を書いて「瀧(滝)」と言う字になる事からも、水の豊富な滝に竜の化身を重ねる見方(信仰)が起こり、滝を水源の守り神(水神)として崇める様になって行ったのではないかと考えられます。
そして恐らくは、尊いその龍すらも不動明王の宝剣に「倶利伽羅竜」として巻き付いていたり、光背の火炎の中に棲む迦楼羅(鳥人神)が竜を捕食すると言われることで、更に強大な力を持つであろう不動明王(「大日如来の化身」と言われている)が、水神の象徴として、祀られる様になってきたのではないかと考えられます。
(全国的にも滝の名前には、「不動」の字の付くものが際だって多くあります)

日本の農業(米作り)にとって大切な水(水源)は日照りで涸れたりすれば一大事でしたので、「神頼み」は当然行われ続けて来た事でしょう。


この画(軸)の裏面には「不動明王 室生寺什物」との表記が見られます。
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室生寺のある地域は、近くに多雨で有名な大台ケ原もあり、昔から雨の多かった場所です。
そして、室生寺周辺には沢山の滝があります。


室生寺の歴史は非常に古く、その前身は奈良時代から(6世紀頃?;伝承では680年~とも)在り、興福寺の僧が草創に関わった事(※2)で、興福寺にも所属していた時期があったそうですが、江戸初期には真言宗の寺として独立していたそうです。


e0259194_1141307.jpg大昔の都の東方にあった事で、「東方向の守護神が青龍」という中国の四神神話に基づく思想と、雨が多い地域ということが結びついて、古くから「室生山には龍神が住む」と考えられ、龍神信仰が盛行だったそうです。
(室生寺の更に東方約0.5kmには、龍神が棲むと言われる洞穴「吉祥龍穴」のある「龍穴神社」があり、古くから雨乞いが行われた聖地とされています;その昔の神仏混淆時代、室生寺とこの神社とは一体だったのでしょう;室生寺は、7世紀には「龍王寺」という称号が勅で与えられていたそうで、雨乞いの行事でも寺の名を馳せていたのだそうです)

山深い場所にあった為に、幾多の戦乱による焼失や破壊を奇跡的にも免れる事が出来た様で、室生寺が保有する尊像や、貴重な文化財の数は群を抜いています。
ただ、それ等ですら明治初期の廃仏毀釈運動で、多数の文化財を散逸(しばしば、散逸した文化財の一部が再発見され話題になっています)してしまった残り物なのだそうです。


勝手な空想をしますと、この不動の図は、雨乞いの儀式の法具として活躍して来た貴重な尊像だったのかも知れません。(不動明王は、雨乞いの儀式に最も相応しい信仰対象でしょう)

神社と寺とが分けられてしまった事(明治元年の神仏分離令)も流失流転の原因かも知れませんし、恐らく無関心な什物管理者にとっては、こんな薄汚れた軸など ゴミ同然にしか見えなかった事でしょう。





ここで検証を深める為に、一般的な不動明王の性格・特徴に関して、9世紀末に天台宗の僧 『安然』が唱えた「不動十九観の儀軌」という定義と見比べてみます。

①大日如来の化身
②真言中に、ア・ロ・カン・マンの4字がある
常に火生三昧(かしょうざんまい)に住んでいる
肥満した童子の姿で、卑しい
頭頂に七沙髻があり、蓮華をのせている
左肩に一弁髪を垂らす
額に水波(すいは)のようなしわがある
左の目を閉じ右の目を開いている
右上の唇は下の歯で噛み、左は下唇の外に歯が出ている
口は硬く閉じている
右手に三鈷剣を持っている
左手に羂索を持っている
⑬行者の残食を食べる
大磐石の上に安座している
色が醜く青黒
奮迅して憤怒している
光背に迦楼羅炎(かるらえん)がある
倶力迦羅竜が剣にまとわりついている
両脇に2童子が侍している


この「不動十九観の儀軌」と、上の画との関連を姿形のみで見比べてみます。(関連要素を色で分け)

(符合する要素)
③;後背状に火焔が有ります。
⑥;顔の左には束ねられた弁髪が、肩まで垂れています。
⑨;歯(牙)は、左右非対称(上下向き)です。
⑩;口は、閉じた様に見えます(牙近くの唇部分以外)。
⑪;右手には「三鈷剣」を持っています。
⑫;左手に羂索を持っている
⑮;肌の色は、青黒(褐色)く見えます。
⑰;不動背後の火焔に迦楼羅焔(鳥の嘴形)が薄く見えています。

  【迦楼羅形の焰部分;画像強調加工済み】(迦楼羅は以前別の記事でも紹介)
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(符合しない要素)
④;「肥満」でなく、中肉の成人体型にも近い様ですし、衣装も唐草模様のボーダー付きの洒落た着こなしに見えます。
⑤;頭頂に「七莎髻」?・・7枚ではなく8枚の蓮華が見えます。
⑦;額に、水波形シワは見えません。
⑧;両眼が左右非対称ではなく、対称で正面見開きの様です。
⑭;盤石上ですが、坐像ではなく立像です。
⑯;憤怒の相とは言い切れず、自然な表情にも見えます。
⑱;宝剣に、倶利伽羅竜は絡んでいません。
⑲;独尊像で、二童子は従えていません。


これらの特徴は、『安然』以降の不動明王の制作年代を様式から推定する上での手掛かりとなる要素なのですが、この軸に関しては、半分じゃくは非該当で、残り半分位だけが該当している様ですので、『安然』(9世紀)以前の作風の影響もうかがえます。(描いたのは画僧でしょうか、仏画なので落款も無く、不明です)

古い物にロマンを感じて空想を膨らませる事は、楽しくてすばらしいのですが、厳密な意味での由緒解明を進めるとなると、前途は多難かも知れません。(他にも基底材の時代測定などの手段が無くはないのですが・・・)


眉毛部分にある渦状の模様は、虎(猫科の一部)によく見る疑似目玉(眠っていて目を閉じている間も、敵に目を開いているかの様に思わせる事に役立つと言われる額の模様)にも似ていますので、牙や幅広の唇を含めて、虎顔からの影響(「憤怒」の恐ろしさを強調する為に?) も有るのではないかと考えられます。

比較的初期の不動明王らしく、素朴な表情と、殆ど腰を振らない素直な立ち姿には好感を覚えますが、絵の具や絹が脆くなっているので、掛け軸としては残念ながら観賞を続けられる状態ではありません。




(本紙の脆化などの具合から見ても、千年程度の歴史は感じられますので、機会があれば年代測定もしてみたいです)








【※1】
参考になりそうなので、ウィキペディアから「不動明王」関連の解説の抜粋を下に張りつけます。(青文字)

(前略)
不動明王は一面二臂で剣と羂索(けんじゃく、縄)を持つのを基本としている(密教の図像集などには多臂の不動明王像も説かれるが、立体像として造形されることはまれである)。剣は竜(倶利伽羅竜)が巻き付いている場合もあり、この事から「倶利伽羅剣」と呼ばれている。
(中略)
また、その身体は基本的に醜い青黒い色で表現される像容が多い。これはどぶ泥の色ともいわれ、煩悩の泥の中において衆生を済度せんことを表しているといわれる。しかし底哩経などには、身体の色は青黒か赤黄とあり、頂は七髷か八葉蓮華、衣は赤土色、右牙を上に出し左牙を外側に出す、というのが一般的とされる。

像容は肥満した童子形に作ることが多く(『大日経』の出典による)、怒りによって逆巻く髪は活動に支障のないよう弁髪でまとめ上げ、法具は極力付けず軽装で、法衣は片袖を破って結んでいる。その装束は古代インドの奴隷ないし従者の姿を基にしたものとされ、修行者に付き従いこれを守る存在であることを表している。右手に降魔の三鈷剣(魔を退散させると同時に人々の煩悩や因縁を断ち切る)、左手に羂索(けんじゃく。悪を縛り上げ、また煩悩から抜け出せない人々を縛ってでも救い上げるための投げ縄のようなもの)を握りしめ、背に迦楼羅焔(かるらえん。迦楼羅の形をした炎)を背負い、憤怒の相で粗岩(磐石、ばんじゃく。「金剛石」とあるのでダイヤモンドの原石である)の上に座して「一切の人々を救うまではここを動かじ」と決意する姿が一般的である(日本では坐像の他、立像も数多く存在している)。
インドで起こり、中国を経て日本に伝わった不動明王であるが、インドや中国には、その造像の遺例は非常に少ない。日本では、密教の流行に従い、盛んに造像が行われた。日本に現存する不動明王像のうち、平安初期の東寺講堂像、東寺御影堂像などの古い像は、両眼を正面に見開き、前歯で下唇を噛んで、左右の牙を下向きに出した、現実的な表情で製作されていた。しかし時代が降るにつれ、天地眼(右眼を見開き左眼を眇める、あるいは右眼で天、左眼で地を睨む)、牙上下出(右の牙を上方、左の牙を下方に向けて出す)という、左右非対称の姿の像が増えるようになる。これは10世紀、天台僧・安然らが不動明王を観想するために唱えた「不動十九観」に基づくものである。
(後略)



【※2】
「宀一山年分度者奏状」(「宀一山」は、室生寺の山号;称名寺蔵・神奈川県立金沢文庫保管)という室生寺に関する現存最古(鎌倉時代)の文書には、宝亀年間(770-780)に、東宮山部王(後の桓武天皇)が病気になり、その平癒祈願で五人の「浄行僧」に依り、室生山中にて「延寿法」が行なわれ、結果として病気が回復したので、後に、興福寺の大僧都賢璟が勅命により、室生寺を創建したという内容が記されています。
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室生寺の前身は、飛鳥時代の呪術者の役の小角の草創という伝承もありますが、残念ながらそれを確認出来る資料は見付かっていません。












by Ru_p | 2013-01-18 15:23 | アート・コレクション | Comments(0)

地獄の閻魔??

閻魔立像図 無款 36×85    06017
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今回の画像も、長い間香の煙に燻され続けていた様で、暗く不鮮明です。































そこで、下の様にパソコンの画像編集ソフトで画質調整してみました。
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とても古い物の様で、欠損や修復の跡が多数ある仏画です。

人の顔が付いた杖(人頭幢)を持ち、温和な表情で菩薩風の服を着た「閻魔」の正面立像です。

十二天図や曼荼羅の図像として、奈良時代頃にはこの様な姿が多く伝えられていた様です。


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錫杖・後背・台座には、一分ですが截金(きりかね:切金)も使われています。


額に如来の百毫の様な毛の束が見られる事など、地蔵菩薩にも通じる解釈で描かれた可能性もうかがえます。
(台座上部に、二回巻の雷文繋ぎ文[ラーメンの丼ぶりによく見られる柄]に似た模様が、敷物の一部を切り抜いたかの様な面に描かれていますが、この使われ方は珍しい)
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一般的に知られる憤怒の形相をした地獄の閻魔大王(鎌倉時代以降に普及する様になった十王信仰の)とは全く雰囲気が違いますが、ルーツは一緒なのだそうです。


【参考で、以下に、ウィキペディアからの抜粋を下に張ってみます】
閻魔(えんま)は仏教、ヒンドゥー教などでの地獄の主。冥界の王・総司として死者の生前の罪を裁く神である。
中略
後に閻魔の本地とされる地蔵菩薩は奈良時代には『地蔵十輪経』によって伝来していたが、現世利益優先の当時の世相のもとでは普及しなかった。平安時代になって末法思想が蔓延するにしたがい源信らによって平安初期には貴族、平安後期には一般民衆と広く布教されるようになり、鎌倉初期には預修十王生七経から更なる偽経の『地蔵菩薩発心因縁十王経』(略して『地蔵十王経』)が生み出された。
中略
中国風の官服を身につけ忿怒の形相の閻魔大王が、鎌倉時代以降に彫像・図像ともに数多く作られたのに比べ、焔摩天の作例はそう多くはなく、そのほとんどは、十二天図や曼荼羅の図像としてである。
後略



十二天図は灌頂(密教で緒仏や曼荼羅と縁を結び、戒律や資格を授けて正統な継承者を決める儀式)の為に十二尊が一組で扱われるのですが、これと組となりそうな天部の似た画像は残念ながら今のところ見つかりません。



【閻魔と地蔵が同体ならば】
「地獄に仏」と言う言葉は有りますが、生前の行いを裁く為に、杖の先の人頭には嘘を見抜く力があると言われているそうで、顔に似合わず怖ろしい存在。

嘘はいけませんが、既に身に覚えのある、後ろめたさを感じる人は、少なくなかったでしょうから・・・



















by Ru_p | 2013-01-17 20:17 | アート・コレクション | Comments(0)

呉道玄を模写?

楊柳観音立像図木版画 元画;呉道玄/模写;上田耕夫/彫;不詳  07021 692×1695
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仏像はその出現以来、模写・模刻が繰り返され、優れたものは敬われ残されたと言う経緯が有って今に至ったのではないかと考えます。優れた仏像には多くの人が威厳を感じ、その美しさに癒されて来たと思います。
元の画を描いたとされる「呉道玄」は、唐代玄宗朝に仕え、それまでの画法に変革をもたらし「画聖」とまで呼ばれ、その画は、後世でも高い評価を受け、中国や日本の絵師に多大な影響を及ぼしたと言われています。
残念ながらそれを見ることは出来ませんが、模写を見ているだけでもその描線の力強さを感じさせられます。この画が模写された時点では、唐代に呉道玄の描いた優れたその仏画が日本に在ったのかも知れないと思うと、更に好奇心が湧いて来ます。


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銘文の部分の拡大画像をみますと、
呉道玄大悲尊像上田耕夫所臨摹今詃
土山士景捐覚翻刻蔵之本寺将以施崇
信之士因識歳月於其端云
寛政十二年秋分後一日
前大乗護国禅寺禅無学誌
と読めます。
●元の画を描いたのが唐の呉道玄(5~6世紀)で、それを臨写したのが上田耕夫(?~1833/円山応挙の弟子で、上田耕沖の父)ということらしいです。
●「寛政十二年秋分後一日」は、西暦1800年9月24日、それが銘文の日付という意味だと思われます。
●「前大乗護国禅寺禅無学誌」は、この文が無学愚禅(1787年から加賀大乗寺43世となった)が記したもの、という意味だと思われます。
●逆算すると、版下の臨写(模写)が行われたのは、西暦1800年かそれ以前と言うことになりそうです。

木版画なので、他にも同一の品が存在する可能性が有ると思い、ネットの画像検索をしてみました。
全く同じ物は有りませんでしたが、よく似た画像は数件見付けました。ただし、鮮明な画像のあるサイトでは「学術目的のホームページへのリンク」に限り利用可能との条件が有りましたので、画像を直接は乗せられず、そのリンクを試ることにはします。
リンク画像は、上の画像と同じく楊柳観音立像でしたが、版下を模写したのが小池 曲江(1758年~1847年)と言う仙台藩の絵師で、文政6年4月(西暦1823年)に松島瑞巌寺にて造立された石碑の拓本のようです(サイズは約一割大く拡大されています)。それには、元の画の作者の情報の記載はありませんでした。
画像を見比べると判ると思いますが、(それぞれの版下画が描かれた時期には22年前後の開きはありますが)元の画が同一の可能性が大きいと思われます。木版と石碑と言う違いがありますが、全体の輪郭線が酷似しているにも拘わらず、細部の模様に異なっている部分が多々見られます。
このことから、模写時点で既に元画は酷く損傷していたのではないかと推測されます。(場合によっては現存はしていない可能性があります)

それとは別のサイトにも、「文化3年(1806年)に小泉斐によって模写された」酷似の肉筆画が、見つかりました。模写された時期が近いことからも、元の画が同一の可能性が高いとも考えられます。こちらの一つは大田原市の「県指定有形文化財」になっているそうです。他の一つは「栃木県文化財指定」になっている様です。共に元の画の作者が「呉道玄」と関わることの記述は無いようです。


上の画像中の無学の銘文は、仏画がそこで1200年近くもの時を飛び越えて伝搬した可能性を示す興味深い手掛りかと考えられます。またそれは、仏画(や仏像)をその様式で制作年代評価することの難しさをも示していると思います。
by Ru_p | 2013-01-10 00:57 | アート・コレクション | Comments(2)

『来光』って『来迎』?

e0259194_23342164.jpg阿弥陀如来独尊来迎図    09016

阿弥陀様が単身で斜めを向いた仏画ですが、見えにくいです→




鎌倉時代(1185~1333)頃の画だと思われますが、あまりにも不鮮明だったので、下の様に修正しました。









無落款、寸法17.5x41.0㎝、(絵絹:二枚筬平織 @経糸31~34x緯糸31~34/㎝)
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元々の仏教の原始経典(釈迦の教え)では偶像崇拝は説いてなかった訳ですが、次第に様々な解釈・編集が付け加わり、『大乗仏教』の立場での「衆生救済」のシンボルとしての佛尊の姿の必要性から生まれたのではないかと思われます。
平安時代中期以降には「阿弥陀如来を信じていれば、臨終に際して阿弥陀如来が極楽に導いてくれる」という「阿弥陀信仰」が盛んになり、多くの御来迎(らいごう、浄土宗ではらいこう)の図が描かれました。

下にウィキペディアから阿弥陀如来の部分的な引用文を貼ります。(水色字)
阿弥陀如来(あみだにょらい)とは、大乗仏教の如来の一つである。
(中略)
梵名の「アミターバ」は「無限の光をもつもの」、「アミターユス」は「無限の寿命をもつもの」の意味で、これを漢訳して・無量光仏、無量寿仏ともいう。無明の現世をあまねく照らす光の仏にして、空間と時間の制約を受けない仏であることをしめす。西方にある極楽浄土という仏国土(浄土)を持つ

(後略)

東から上り西へ向かう日の出の光(御来光)が信仰の対象と解釈されて来たとしても不思議はないことだと思います。

阿弥陀如来像の光背の放射状の線は、如来が発する光を表すのだそうですが、親鸞聖人(1173~1262)の出現以降、四十八願(阿弥陀様が仏に成る前に立てた48の誓願)にならってその数は48本が主流になったそうです。ところが、上の阿弥陀像は、11条(×3本:もう1条体の陰に有ったとしても計36本)で、作られた時期とも関連が有りそうな特徴です。他に、放射状光線の中心が、頭光の中心ではなく、白毫(びゃくごう:額の突起部分)付近となっている事も少し変わった特徴(他に例は有るようですが)で、構図の解釈に絵師の試行錯誤が伺えます。

また、この手の形は「来迎印」と言い、近世の解釈では、九種類あるとも言われる阿弥陀如来の印相の中で「上品下生(じょうぼんげしょう)」という形の様で、生前に功徳の有った人の臨終を出迎える時の相なのだそうです。
その解釈では、来迎に九段階のグレードが有ったのですが、この画ならばおそらく、貴族階級の持ち物だったでしょうから、絵師としては、上位に描かざるを得なかった事でしょう。

経年劣化により頭光などに剝落・欠損した部分がありますが、幸いにして顔はよく残っています。信仰心に拘わらず、こんな穏やかな顔を見ていると、気持ちは落ち着くものです。


ところで、同じ読みともなる「御来光(ごらいこう)」ですが、日の出の見方には必ずしも「元旦」や「山頂から」という条件は無いのだそうです。(元旦に富士山頂などから拝められれば一層感動的なのでしょうが、私には寒過ぎてご免です)


まったくの余談で、如来が乗る『飛雲』は実に先進的な乗り物ですが、極楽まで乗りきるにはサーフボード並みのバランス感覚が必要なのではないかと気になります。











by Ru_p | 2013-01-01 00:14 | アート・コレクション | Comments(0)

神聖な白象

 三佛斉白象朝貢図    06045
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白象は、突然変異(アルビノ)で生まれることが有ったのでしょうが、大変珍しかったようです。
中国や東南アジアでは、お釈迦様の母親の摩耶夫人が懐妊する前に、白象が胎内に入る夢を見たと言われることからも、神聖で稀少な生き物として大切に扱われて来たそうで、その意味ではこの画は『仏画』になるのかも知れません。(落款には「土佐守藤原光貞筆」)
8世紀頃東南アジアに在ったと言われる「三佛斉」から中国宋への朝貢貿易で贈られた『白象』(と、それを運んだ人々)の画を、江戸時代に日本の絵師が模写したものと思われます。
謎の三佛斉の人たちの衣服ですが、伝統的なインド更紗のようで、なかなかオシャレだと思います。
象も当然『インド象』でしょうから、「インド」とのきわめて深い繋がり(交易の盛んさ)を感じます。

(参考画像 1)
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また、釈迦三尊の脇侍(または単独でも)描かれる普賢菩薩の乗物としても有名です。
(参考画像 2)    06050
無落款 普賢菩薩騎象図
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象が思いの外小さいのは、「小象」だからでしょうか、それとも見たことが無かったからでしょうか。
ピアスをされているのは、愛されていた証拠でしょうね。


(参考画像 3)   06058 
無落款 江口の君図(見立て普賢菩薩:肉筆浮世絵)
e0259194_18541590.jpg

新古今和歌集の巻第十にある西行法師と遊女との問答歌が、観阿弥の謡曲「江口」として世に広まり、多くの絵師たちが題材として取り上げるようになったそうです。
by Ru_p | 2012-12-23 19:06 | アート・コレクション | Comments(0)


妄想猫の起末具連記


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