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カテゴリ:アート・コレクション( 128 )

仙厓の達磨?

仙厓義梵筆 『達磨図』自画賛 紙本 18015 31×88
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口をへの字に結び、僧衣に手を隠した、達磨(ダルマ)と思しき老人が、虚空を見上げながら、何か不満げな表情。

上部に書かれている賛文の、下手くそ(風)な文字は、
佛の佛け臭きハとへらより鼻可きつか

もっと現代語(風)に直すと、
佛のホトケ臭きは、とべらより鼻がきつか

ここで「とべら」は、節分に門の(とびら)などに吊す、鬼が忌み嫌うと言われる「鰯の頭」や「ひいらぎ」と同じ目的で使われていた、葉や枝に独特の異臭のある植物の名称です。
名前の由来は、吊してあった「(とびら)」が訛った言葉とも言われています。

禅僧の身でありながら、禅宗の開祖である達磨(?)に、画の中であっても「佛臭い」と、(博多弁で)言わせてしまう大胆さには、誰もが驚いた事でしょう。

見る人に「とんでもない不敬」だとか「佛罰が当たるのでは」と感じさせることで、逆に画の世界に引きずり込んてしまう。仙厓さんは、そんな奇抜な表現で、佛の教えの本質を改めて考え直させる事を、目論んでいたのかも知れません。

江戸時代には、幕府の方針によって、寺の「檀家制度」が固められ、以後それに守られ堕落し腐りきった寺院や僧侶等による横暴や乱行が横行しましたので、実際に「佛臭さ」が「鼻に付く」事態は多かった事でしょう。

釈迦が悟りを得て、教えを説いた時代には、その「教え」は単なる信仰の対象と言うよりも、己の心のあり方を知り改める事で自身が救われる為の「哲学」の性格が強かった様ですが、時が経ち、後の人々が拡大解釈を繰り返す内に、佛への信仰心が、救いや加護を得る代償の行為と思わせる風潮が強くなり過ぎて行ったからかも知れません。


ところで、この『達磨』さんの顔は、殆ど威厳が感じられず、単に頑固そうで、お茶目な「おじいちゃん」風です。

仏画にちょっと詳しい人が見れば、当然『達磨』が禅の教えを語る画、と思いがちですが、そもそも、画の中の何処にも、この老人が『達磨』であるとは書かれていません。

その辺に、この画を読む一つの鍵が隠れていのるかも知れません。
(もしかして、単なる「僧の図」?)

おそらく、この「おじいちゃん」が仙厓さんご本人で・・・・


「達磨風自画像」!?


相手の事を考える故に、敢えて誤解を受けたり非難される事を厭わず、
誰にでも平然と苦言暴言を並べてしまう、勇敢で心温かいひねくれ老人。
そんな仙厓さん像を思い浮かべる事で、画に共感出来る気がします。




癒やしが感じられ、好きです。
(可愛くて魅力的)











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by Ru_p | 2018-05-27 14:39 | アート・コレクション | Comments(0)

白隠の禅画(の4)

白隠慧鶴筆 蓮池観音座像図 自画讃 18008 29×98

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白隠さんが度々描いていた定番的な画題で、観音菩薩の図とその画賛の様です。

上部の賛は、「観音経」(「法華経」の中の「観世音菩薩普門品第二十五」)から引用した、「慈眼視衆生 福海無量」という文言の中の、一文字「(ジュ:「あつめる」意味)」を、「(ジュ:「祝い」の意味)」の文字に置き換えて、一際大きく書き、「(観音菩薩が)海の様に大きな慈悲の心で衆生を見て祝福する」と言う様な意味にアレンジして、画を目出度そうな雰囲気にも見せている様です。

内側に蓮華柄の衣を着て、蓮華の花の宝冠を被り、外側には頭から白い布をまとった、ふくよかで穏やかそうな表情の女性が、両手で印(禅定印)を結び、目を閉じて蓮池に面した岩の上の蓮華座に座り瞑想しています。
その左側には、瓶に挿された柳の小枝が蓮の実の上に載っています。

宗教的絵画で、一般に尊像が描かれる場合には、象徴的に結びつけられたアイテム(持ち物、小道具・背景、又は手足等の特定のポーズ等)が、その尊像の性格を示す約束事として描かれる事が多く見られます。
そのアイテム類は、「持物(じぶつ)」又は「アトリビュート(attribute)」とも呼ばれ、古い経典などの中に、その根拠が示されている場合も有ります。

そんな理由があるので、この女性は、「楊柳観音」とか「白衣観音」と解釈されて呼ばれる場合もしばしばあります。

しかしながら、逆の意味では、どれか一つの尊名には、特定しにくい画とも言えそうです。

場合によっては、この女性を様々な観音の化身の様に見立てて描く事で
、多くの変化観音の、それぞれの優れた能力を集約的に、ご利益として期待させたかったのかも知れません。



観音経の「観世音菩薩普門品第二十五」は、104句(520文字)の(大乗仏教の)経典とされて伝わっています。

白隠さんは、それを上の様に、たった2句(10文字)の画賛に要約して使った訳ですが、それと似た要約版に、「延命十句観音経」(「延命」は白隠さんの命名)という42文字の便利な経典(原典では無く、「偽経」とされる)もあり、(生衆が)それを幾度も唱える事で、救済(の現世ご利益)が期待出来ると信じられていたそうです。

何れにしても、白隠さんご自身が、慈悲の心を持って、生衆の救済を望んでいたからこそ、この様な画や画賛を描き続けていたと言う事なのでしょう。(それが、白隠さんの目指した「禅」の一つの形だったのでしょう)

おそらく当時は、今より多くの生衆の苦しみを目にする時代だったでしょうが、その生衆へは、白隠さんご自身と同様の「禅」の道を勧めるのではなく、観音様への祈願と言う形で救われる手段をすすめた。
(何だか、大昔のお釈迦様の苦悩にも似た、判断や選択の葛藤が感じられます)










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by Ru_p | 2018-05-07 19:55 | アート・コレクション | Comments(0)

月の天女

月天図 (無落款) 34×78 06011

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月天は、「十二天」(八方位と上下の他に、太陽と月をも加えた十二の方向を象徴し神格化した十二人の仏法の守護神)に属する「天部」の一人です。

その「十二天」の図(十二天図:灌頂という密教寺院での儀式に用いられる法具)は通常、十二枚の屏風や掛け軸を一組として描かれる仏画群で、日本では平安時代初期頃からの作例があるそうです。

しかし、ここの月天の胸像の様に写実的で優雅な画は、十二天図としては他に類を見ませんし、これと組になりそうな他の「天部」の画も見る事がありませんので、おそらくは儀式の法具としてではなく、始めから貴族の念持仏などの様に独尊像として描かれたのではないかと思われます。

仏画なので作者は不明(厳密な制作年代も不詳)ですが、こんなに優しそうで神秘的な天女を見れば、古の人々も心惹かれ癒やされていた事でしょう。



【参考で、ウィキペディアでの「月天」の解説を下に引用します】

月天(がつてん、がってん、Skt:Candra、音写:戦達羅、戦捺羅、旃陀羅など)は、仏教における天部の一人で、十二天の一人。元はバラモン教の神であったが、後に仏教に取り入れられた。

正しくは月天子で、月天はその略称。月宮天子、名明天子、宝吉祥との異名もある。やその光明を神格化した神で、勢至菩薩の変化身ともされる。四大王天に属し、月輪を主領して四天下を照らし、また多くの天女を侍(はべ)らし、五欲の楽を尽くし、その寿命は500歳といわれる。

形象は、一定しないが3羽から7羽のガチョウの背に乗り、持物蓮華や半月幢を持つものがあり、として月天后を伴うものがある。両界曼荼羅や十二天の一人として描かれることがほとんどであり、単独で祀られることはほとんどないようである。



なんと、元来の月天は、男神だったと・・・






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by Ru_p | 2018-03-22 12:15 | アート・コレクション | Comments(0)

白隠の禅画(の3)

鷲頭山図 白隠慧鶴筆 17009 41×108

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禅僧の白隠さんは、65歳を過ぎた頃から、多くの「禅」の教えを、自らの賛文とアニメチックな画とに込めて、繰り返し表現する様になりました。
この「鷲頭山図」も、その意味で同じテーマの画が何点か現存している様です。

賛文にある変体仮名を、母字(表音文字である仮名の元となった漢字)に置き直すと、 (右から左へ読む)
見あけて見連は鷲頭山 見お路せは志け鹿濱能徒里ふね

この時代の仮名交じり文は、濁点も句読点も付けなかったので、更に現代語風に書き直すと、
見上げてみれば、鷲頭山。見下ろせば、志下鹿浜の釣り舟。
(みあげてみれば、わしずさん。みおろせば、しげししはまのつりぶね)

この画賛は、この地域で当時歌われていた民謡(作業歌?)からの引用でもあったので、地元では誰もが知っていた文言だったようです。

画にある三隻の小舟にはそれぞれ、一人が艪で東の風に向かって舟を操り、もう一人が釣り糸を手繰って魚を誘うと言う(穏やかな早朝の)伝統的で、誰もが見慣れていたであろう一本釣り漁の様子が簡潔な筆遣いで現されています。


「鷲頭山」は、富士山の南南東約30kmで、伊豆半島の付け根西側に位置し、沼津アルプスとも呼ばれる標高392mの低いながらも険しさのある山で、画とも雰囲気は似て見えますが、実物はもう少し勾配が緩い様です。
白隠(はくいん:1686~1769)さんが晩年を過ごした原の松陰寺からも、約10kmと近い場所でした。

志下(しげ)の「鹿濱(ししはま)」は、鷲頭山の南西約1kmの駿河湾に面する小さな漁村の地名でしたが、今では読みはそのまま同じで「獅子浜(ししはま)」と言う字の地名に変わっています。


ここで、鷲頭山を見上げるべき崇高な存在として象徴的に扱っている理由ですが、お釈迦様が悟りを得た後に、『無量寿経』や『法華経』を始めて説いた聖地とされる山の名前(梵語でグリドラクータ:鷲の山を意味する/和名:霊鷲山)と通じるので、その聖地(霊山)に見立てたからと言う説が一般的には知られています。

(但し、この画の場合には、鷲頭山の背後に、「霊山」として名高い富士山や愛鷹山まで描いていあります;この画の鷲頭山の向きですと、富士山はもっと左側に見える筈で・・・ご愛敬かな?/何点かある同テーマの画の中では、構成や体裁が比較的整って見えますので、遅い時期の作品だったのかも知れません)


そしてもう一つ、(未だ何方も言及されてない解釈の様ですが)更に大きな理由が考えられます。
それは、文明元年(1469)に金比羅大権現の分霊(わけみたま)によって祀られた「鷲頭神社」が、江戸末期までは、この鷲頭山の山頂に鎮座していたと言う事です。
(明治維新の後、北東約1.5km先の天満山へ、周辺の神社と合祀しての遷座が行われてしまいましたが、その奥宮だけは現在でも鷲頭山の山頂にひっそりと残されています)

全国の金比羅神社の総本宮となる讃岐の金比羅宮(明治以降には金刀比羅宮と改称)の社殿が建っていた山は、名を象頭山と呼ばれています。象頭山という名は、もとはインドのガヤの南西にあって、お釈迦様と因縁の深かったガヤー・シーサと呼ばれる霊山の和名なので、そこにあやかって付けられた様です。
象頭山と鷲頭山(霊鷲山の別名)とは、インドでは約50km隔たった別個の山(霊山)ですが、日本では似通った由来を持つ名前なので、混同される事もしばしばあった様です。

金比羅宮のあった象頭山(標高538m)は、「日和山」とも呼ばれ、海の民が船を出すかどうかを判断する際に日和を見る事(天候予測)にも利用されていたそうです。この画にある釣り人を含め、海に生きる人々は、おそらく分霊された方の鷲頭山山頂の神社にも金比羅の神の霊験を感じつつ、日々の海上安全を祈願していた事と考えられます。

金比羅神は、もとはインドのクンピーラ神と言われ、ガンジス川に住む鰐(ワニ)が神格化されたものとも言われていますが、日本では仏教に守護神として取り込まれ、「金毘羅大権現(※)」(主に海難や雨乞いの守護神)として信仰される様になったそうです。(日本古来の「神」とは無関係ながら、神仏習合や修験道が融合して、更に江戸時代の民間信仰の流行の波も加わり、当時は特異な隆盛を誇っていました)




(※)

数多い白隠さんの墨蹟の中には、「金比羅山大権現」と書かれた書が複数ありますので、白隠さんは当然「金比羅大権現」に対して強い敬意を持っていたと考えられます。

(白隠さんの墨蹟;「神号」/『墨美』より;龍翔寺蔵)
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白隠さんの時代(廃仏毀釈運動が起こった明治維新よりも百年以上前)の「金比羅さん」の総本宮と言えば、讃岐にあった象頭山松尾寺の金光院に祀られた「金比羅大権現」が主祭神だった訳ですが、何故か何れの墨蹟を見ても、「金比羅」と「大権現」との間には敬称の「さん」ではなく、「山」の文字が書かれています。

(もしかして白隠さんは、揮毫の時に対の様に書いていた「秋葉山大権現」の「山」の意識が強かったので、つられて書いてしまったという単なるご愛敬だったのか?   それとも何処かの「山」 を意図して・・?)









鷲頭神社の前身(金比羅大権現を祭祀)があった鷲頭山は、白隠さんの時代(江戸中期)には、仏教とも関わりの深い場所であったと同時に、地元の庶民にとっては「見上げるべき」崇高な「山」であった事でしょう。

現存する同一テーマの他の「鷲頭山図」の中には、鷲頭山の中腹に大きく鳥居の形(神域を示すシンボル;実際のその位置に、こんな大鳥居はありません)が描き込まれている例もあります。
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(鳥居の描かれた「鷲頭山図」/『墨美』より;旧山本發次郎コレクション)




白隠さんは、同じ視界(一枚の画の中)で、崇高な聖域と庶民の日々の生業とを、対比させながらも、ごく身近に共存している様に表現する事で、「禅の宇宙観」を、見る人に判りやすく解こうとしたのではないでしょうか。










【参考】


江戸時代に「金比羅さん」として庶民に親しまれた象頭山松尾寺の金光院は、元々は神仏習合の寺社だったので、仏教(真言宗)の「寺」でもありました。
ところが、明治時代には、近代日本の歴史上の大きな汚点(政治と宗教の絡んだ)とも言うべき神仏分離令や廃仏毀釈運動での弾圧の標的とされた為に、改宗を迫られ、結果として廃寺にまで追い込まれてしまい、多くの貴重な尊像や経文までもが焼却などで失われてしまいました。


金比羅大権現尊像 (紙本肉筆:作者不詳)

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明治初期には、異なる祭神の宗教団体が、信者をほったらかしで、入れ替えわってしまうと言う、大胆な組織改造が『権力』に依って強行されていたのです。
現在の『金刀比羅宮』での祭神は、大物主命(と崇徳天皇)に代わってしまい、有名な歌にまである「金比羅大権現」ではなくなっています。

(♪~♬)
金毘羅船々(こんぴらふねふね)
追風(おいて)に帆かけて
シュラシュシュシュ
まわれば 四国は
讃州(さんしゅう) 那珂の郡(なかのごおり)
象頭山(ぞうずさん) 金毘羅大権現(こんぴら だいごんげん)
一度まわれば


明治42年には象頭山松尾寺が、『金刀比羅宮』を相手に、建物や宝物の所有権返還請求の訴訟を起こしましたが、当時の高松地方裁判所に依って棄却されています。





今日の日本では考えられない様な権力による暴挙があったのですね。
(学校では詳しく教わらなかった歴史)

鷲頭山山頂にも分霊されていたる「金比羅大権現」の存在が、ますます有難く感じられそう・・・








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by Ru_p | 2018-03-10 17:20 | アート・コレクション | Comments(0)

『猫』 を躾ける人? (文晁)

人物は「(阿)羅漢」 (仏教修行での「到達者」を指す言葉)

猫は猫でも 猫科のトラ




伏虎羅漢図 谷文晁筆  06032

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この羅漢様は、伝説では、虎を神通力で手懐けていたそうです。
猫っぽい虎ですが、威嚇の表情にどことなく、リアルさ・鋭さが感じられます。

作者とされる江戸後期の絵師 (谷文晁:1763~1841)自身は、実際の虎を見た事がありませんが、中国に限らず、寛政期に欧州から日本に入って来た「ヨハン・ヨンストン(1603年-75年)の動物図譜」等多くの動物画の摸写を行っていました。


猫は、犬と違って躾けが難しい生き物ですので、「飼い犬が餌を盗めば飼い主の責任ですが、猫の場合にはその責任で飼い主が追求されない」と言う意味の判例があったと聞いた事があります。

羅漢様って すごい!











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by Ru_p | 2017-10-28 10:42 | アート・コレクション | Comments(0)

恋する・・・? (芦雪)

①左幅:虎図 長沢芦雪筆
 紙本淡彩色 17018 44.4×120.1
②右幅:龍図 長沢芦雪筆  
紙本淡彩色17019 44.6×120.3

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『恋するふたり』 (双幅図)


【まさか?】

実際には「龍虎図」なのですが、もしも そんな「題」が付いていたとしたら、
相思相愛の間柄、と言う見立てに合点してしまうのかも知れませんよね。

上の作品での落款署名の書体や筆致を見ますと、長沢芦雪の晩年にも近い寛政年間の中期頃の作品と思われます。
その頃の芦雪ですと、幅広い層での交友が有ったでしょうから、様々な場所で「龍虎図」を見る機会があり、知識も豊富に蓄えていたと考えられます。

この画は、当たり前の先入観で見た場合、力を誇示して威嚇し合う宿敵同士を、二頭の霊獣が象徴しているかの様に見える事でしょう。
しかし、もしもそんな全ての先入観を捨て去って見る事が出来るとすれば、仲むつまじい関係同士に見立てられない事もないのでは?


(芦雪の心に棲んでいた、猫の様に甘える虎と、優しく気の弱そうな龍とが、本紙紙面から滲み出て来てしまい・・?)


【そこで、疑問が 】

今までに芦雪の龍や虎を幾つか見て来て、不思議だと感じていた事があります。
表情があまりにも “恐ろしくない” 事です。

まるでペットの様に「ゆるめ」で可愛らしく描かれている作品が妙に多く目に付きます。
はみ出す様な構図による存在感や迫力は劣らないので、むしろ好まれる「ゆるさ」なのか、とも感じられます。
(他の絵師の作品でも、恐ろしくない龍虎図は、しばしば見掛けられます)

芦雪の表現力を以てすれば、更に恐ろしい表情で、もう一歩緊迫の度を高めて描く事も可能だったはずです。
龍や虎の実物など、だれも見た事は無かったはずですが、意図的にそうしたのであれば、その理由は・・


こんな事を感じたのは、私だけなのでしょうか?




【何か、見落としては?】

左幅①虎図では、顔と体の概略の形を描いた後で、ごく薄い赤を加えた墨で虎の柄の下塗りを行い、乾ききる前に中濃の墨を描き加えた様です。全体に赤茶色っぽい墨色の模様で、それが塗り残された白っぽい部分を引き立てている様にも見えます。
右幅②龍図では、龍の手や顔の概略の形を描いた後、一休みして乾燥を待ち、その後で藍を少し加えた墨で、水筆で雲をぼかしながら描いた様です。龍の腕には、虎図で使った薄い赤の墨も使って柄を描き加えた様です。(全体として青っぽい墨色と感じます)
それぞれの画を個別に眺めると、殆ど墨以外の彩色がされていないと感じる程度の薄い彩色です。

紙は、普通の唐紙(中国の黄色味の多目な竹の紙)が使われている様で、墨の滲み具合では良い味となっています。
(繊維が短かく強度が小さいので、傷みが多く、虫食い穴もあります。所々に過去に表具師が行ったと見られる修復跡があり、近くで見ると多少目立ちますが、少し離れて見れば気にならない程度です)

落款署名は意図的に、それぞれの画の外側の邪魔にならない場所を選び、添景も兼ねて画の雰囲気に合わせた書体(筆致)で、書かれています。
双幅ともに、ほぼ同じサイズで、同じ日に左右に並べた状態で、極短時間(1時間程度?)に描き終えられたものと思われます。

この龍図・虎図は「双幅図」と言って、二幅対の状態で鑑賞される事を前提に描かれた一組の画に違いありません。


【並べて壁に掛けると】

二つの「窓」の様に見えるそれぞれの画面で、はみ出す様に配された虎と龍とが、互いに縺れて渦を巻く様に干渉し合い、まるで「窓」の外には、嵐の様な別世界が存在しているのか、と錯覚しそうな気分にもなります。

この双幅龍虎図の作画意図が、小さな画面の効果的な使い方で、たとえ狭い部屋にいても、広い空間を感じさせる暗示効果を狙う構成、だったのでは無いのかと気付かされます。

陰陽の太極図(「二つ巴」に似た形)の様に見えそうな配置の時には特に、強い力の象徴である龍や虎の姿を借りて、見る者の直ぐ近くに広大な異空間が存在するかの様に感じさせられます。
はみ出た部分が大きく拡がって行く様に見せる演出効果を活かして、「禅画」(見る者が、自身の存在についても見直す為の効果?)としての意味をも持たせたかったのかも知れません。

狙いがそれならば、リアルで恐ろしい顔や姿に描くだけでは現せないとしても当然(むしろ邪魔)なのでしょうね。



【誰か、知っていた?】

「龍虎図」の本来の意味が、その辺にもあったのかも知れないと気付いた時点で、すぐにネット上での検索を試みましたが、そんな具体的で平易に説明された(合理的な)解説が見当たりません。見る者に何を訴え様とする画なのか、と言う最も重要な部分の解説が見付け難くて、淋しい事です。

元々が中国から伝えられた「龍虎図」なので、更に深い「禅」や「道教」の宇宙観との関わりが伴っていても不思議ではないのですが、かつてそんな解釈が有ったのだとしたら、その伝承はどんな理由で滞り、消えてしまったのでしょうね。




また、課題が一つ増えてしまいそう・・・













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by Ru_p | 2017-10-14 00:08 | アート・コレクション | Comments(0)

憧れだった蕪村?(芦雪)

まだ駆け出しで修業中だった長沢芦雪(1754-1799/7/10)が、「平安人物志」(近世京都文化人の名や住所を集成した出版物)天明二年版の画家部門に、掲載されたのが29歳(満28歳頃)で、彼には初めての事でした。

「平安人物志」は、芦雪の存命中では、明和五年(1768)の第一版に始まり、二版目の安永四年(1775)での改訂を経て、その天明二年版(1782年7月)で三度目の出版でした。(その次は30年も後の文化十年版で、芦雪の没後14年目)

芦雪の師匠の円山応挙は、既に画家部門の筆頭に名を連ねていましたので、芦雪にとって自分の名が平安人物志に載った(絵師として、世間から認められた)事は、さぞや嬉しい出来事だったと思われます。

天明二年版の画家部門を見ると、筆頭の応挙に次いで、伊藤若冲・与謝蕪村 等の名がありました。
その頃の与謝蕪村(1716-1784/1/17)は、芦雪の住居から約1キロの近距離に住んでいましたが、亡くなる1年半位前(数え年67歳)で、重度の下痢症を患って衰弱していた様です。

当時の芦雪にとって蕪村は同業者ですが、自分より遙かに名前の売れた先輩でしたから、老い衰えたとはいえ、その存在には大きな関心を持ち、顔や姿も当然見知っていたと考えられます。

長沢芦雪筆 空を見上げる歌人の図 17007 紙本 29×128.5
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上の画や落款の署名は、芦雪が最晩年(蕪村が没した10年以上後の寛政後期)に使っていた書体(筆致)の様です。
とすればこの画は、芦雪が見た最晩年の蕪村の姿を、何らかの理由で、十数年後に回想して描いたものかと思われます。

この画の場面は、蕪村が空を飛ぶ鳥(カラス?)に、何らかの想い(哀愁?)を感じて眺めている姿、と芦雪の目には映ったのでしょう。

場合によっては、カラスに似た、(※)八哥鳥に見えたのかも知れません。

(当時日本の絵師達は、中国の宮廷絵師として1731年から約二年間長崎に滞在した沈南蘋の、花鳥図の技法に大きく影響を受けていて、八哥鳥にも特に強い関心を持ち、飼育する人も多くいたそうです)

※ 八哥鳥:ハッカチョウ/叭叭鳥(ハハチョウ);スズメ目ムクドリ科;日本では殆ど見られませんでしたが、大陸南部に多く生息していて、中国画の題材には古くから吉祥鳥として扱われて来ました。


参考:芦雪にとって、応挙の同門で何かと因縁深かった松村呉春(1752-1811)も、後に蕪村を回想して、没後18年目の命日の為に、肖像画を描き残しています。  
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呉春筆 蕪村画像 享和元年(1801)
(MIHO MUSEUM 監修の展示会画集より)


蕪村存命中最後の十年間、呉春は画と俳諧で蕪村の弟子でしたし、その最期も看取っていました。




下の画は、落款の署名と印象から、芦雪が晩年の蕪村を見かけたのと近い頃に描いたと思われる八哥鳥の図です。
この画には、沈南蘋(中国清時代の宮廷画家)の画を基にした摸写という意味の「倣南蘋筆意」の文字が記されています。

写真も印刷も普及していない江戸時代以前の日本では、必ずしも絵師にオリジナリティーが求められず、摸写であっても価値を評価される時代でした。(仏画の場合などは、当然全てが仏典からの引用や複写でしたしので、その様な文化的背景もあったからでしょうか)
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長沢芦雪筆 岩上の八哥鳥図 「倣陳南蘋筆意」 17012 紙本 24.3×88.6

天明年間の初め頃(又はその前)の若描きで、文字や描線に、よく言えば初々しさはありますが、どことなく稚拙で、まだ芦雪らしい自信や勢いが感じられません。

その頃の多くの日本の絵師達と同様に、芦雪も練習のために中国の画(として沈南蘋の八哥鳥)を写したのでしょうが、虎図と同様で実物を見る機会が殆どない為、想像に頼った解釈で描かざるを得ない面があったのかも知れません。

この八哥鳥図での、羽の白っぽい色の部分の表現は、墨をわざと塗り残した様な描写で、蕪村の晩年の「鳶・鴉図(重文)」の雪の部分の描写(塗り残しの技法)に多少似ている様にも見えます。また、鳥の表情は妙に『アニメチック』(で擬人化されたかの様)に感じられます。
場合によっては、若く未熟だった芦雪なりに、蕪村の作品から、何らかの影響を受けて描いていたのかも知れません。



芦雪には、実在の生き物を描いたと思われる作品でも(十分観察しているはずなのに)、あたかも人の様に感情を持つ(?)のかと感じられる画が多々あり、そこが魅力でもあります。

この芦雪や蕪村(と更に仙厓も)の描く生き物には、「カワイイ」と感じてしまう画が多く、個人的に大好きな絵師たちです。
(彼らの個性や人柄からなのかも知れませんが、生き物への優しさ・慈しみが感じられ、癒やされます)






























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by Ru_p | 2017-10-01 06:41 | アート・コレクション | Comments(0)

江戸でもダンス(の2)

①舞美人図  岩佐勝重筆 絹本肉筆 39×31.6 17015
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女性が鼓と踊りで、若い男性をもてなしている、江戸初期の花街の情景なのでしょう。
あどけなさの残る、若い男性の視線は、片袖を脱ぎつつ踊る、お気に入りの女性に釘付け・・


画の作者は、落款印「勝重」から、岩佐又兵衛(1578-1650)の嫡子の岩佐勝重(1613-1673)かと思われます。

この親子は、筆致が非常に似ている事や、無落款の作品が多い事など、謎が多かったので(時代が古く、資料が少ない:同じ工房で活動していたり、「御用絵師」と言う立場もあり)、同一人物の作と見る説もあったそうです。
(物理的な年代測定は可能でも、厳密な作者の特定は今でも無理です)


画は描線も衣装の柄も、活き活きとして繊細、その場の会話までが聞こえて来そうです。

岩佐勝重の生きた時代の作品ですと場所は、2代目吉野太夫をも輩した京都六条三筋町辺りの遊郭でしょうか、人々が大らかだった頃の風情が感じられます。






②俳画 与謝蕪村筆 紙本淡彩色 26×71  17003
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画賛には、蕪村の「四五人に 月落ちかかる おどりかな」の句。
(自画賛の俳画ですので、俳句と画は、リンクしているはず)

蕪村は、これと同じテーマの俳画作品を、他にも複数(仮名遣いや構図はそれぞれ異なる)残していますが、何れも気負いのない文字や画で、自然体の人柄が感じられます。(どれも画が、かわいい)




真夏の盆踊り。
何かに憑かれたかの様に踊り続け、最後に残った四~五人。
始めは上にあった月も、すっかり低く傾いてしまっている。
そんな情景が思い浮かびます。

この時代には、BGM(笛太鼓の演奏)も、夜通し付き合ってくれていたのでしょうか。







昔も今も、踊り( ≒ ダンス )には、踊る側はもちろん、見る側をも引き込む魅力(魔力?)がある様です。









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by Ru_p | 2017-09-26 00:06 | アート・コレクション | Comments(0)

大文字焼き?(芦雪)

大文字送り火の図 長沢芦雪筆(蘆雪写)     17011  紙本:48×111

年中行事で、盆送りの風景(「夏の風物詩」)の様です。
e0259194_01182034.jpg

画の右上部分には、山の中腹で、大の字形に配した薪(火床)に、松明で上方から順次点火している様子が描かれています。
(京都では歴史的背景もあり「大文字焼き」とは呼ばれないそうです )

e0259194_01372626.jpg
盆送りは旧暦7月中旬、夕刻に行われていた行事なので、全体に暗く描かれていますが、現代の大文字送り(毎年8月16日20時に点火)よりは、少し早い時刻の様です。

盆の送り火での薪は、一般的には、すぐに火が点き、すぐに燃え尽きる麻がらが燃やされています。この画の場合でも、細く真っ直ぐな(麻がらの様に見える)薪が火床毎に積まれている様です。画だけでは厳密な材質の判別は出来ませんが、予め乾燥させておいた薪を、参加者達が分担して持ち寄り設置したのでしょう(現代の京都五山の送り火では、もう少し太い材の護摩木が使われているので、その分で燃焼の時間が延びそう )。

高い所の炎と煙は、強い風(南から?)に煽られたらしく、殆ど水平に棚引いて見えますので、火事が心配になる勢いなのですが、この後にはきっと参加者達によって、確実に残り火の始末が行われていたのでしょう。

描かれている人物は、何れも屈強そうな男ばかりで、数えてみると41人。髪型や衣服、それに表情から、近隣に住む顔見知りの仲間同士の様です(中には裸足で参加している人もいます)。
e0259194_01531182.jpg



【長沢蘆雪の、若い頃の画?】

更に一人づつを見比べると、体型・姿勢・顔つき・服装・持ち物など、執拗な観察に基づき、意図的に「描き分け」を試みた(極端なほど別々の個性を強調)とも感じ取れます。

登場人物の表現方法では、職業絵師(後年の蘆雪の場合にも)であれば、主要な人物の表情には特に重点を置き、そうでもない存在には味付けを省略する表現が多いのですが、この画の場合には、雲や樹木などと省略に使えそうな要素が多いのに、それ等を要領よく使おうとする逃げが見えません。ある意味では、敢えて「十人十色」又は「百人百様」への描き分け表現に挑戦した、かの様です(師匠の指導だったのか?)。

ここでの、人物を妥協せずに描き込みきろうとする姿勢には、まるで師(応挙)の作品で「七難七福図巻(1768年制作:重要文化財)」などにも見られる様な生真面目なまでの拘り(後年の蘆雪なら、もっと気楽そうな・・)が感じられます。

長沢蘆雪(1754~1799)の落款で、楷書での署名の例は、主に天明年間の頃(二十代半ばから三十代始め頃まで)に使われていたのですが、ここの署名には、その最も初期の作品として知られる「東山名所風俗図(1778年制作)」にも近い雰囲気(真摯なぎごちなさ)が感じられます。

また、この画の本紙に使われている紙ですが、きわめて薄くて繊維の短い紙(画宣紙?)で、小さく半端なサイズの紙が十数枚継ぎ合わされ、裏打ちで整えた状態にして使われている様です。それも、比較的不器用そうな継ぎ跡なので、場合によっては、絵師として世間に認められる前の蘆雪(二十代半ば頃?)が、自から準備を試みた、貧しい修業時代の画材だったのかも知れません。
e0259194_07143022.jpg

(用紙の継ぎ目部分が粗雑;明暗を調整して拡大)




修業時代の蘆雪が通っていた京都四条の師(応挙)の住まいは、大文字の送りが行われた京都東山の如意ヶ嶽にも近いので、その山で描いた下絵を基に、この画が描かれたのかも知れないと考えれば、つじつまは合いそうです。




ところで、この画(掛け軸)の軸先には、仏表具の時に使われる金物(金属製品)が付いていますので、仏画として表具に仕立てられた様です。
盆送りは、仏教関連の宗教行事(現在では、地元の保存会の方々等によって運営されている様ですが)でもあるので、仏画として扱われていたとしても、不自然とは言えないでしょう。
ただ、画(本紙)の周辺部を二分(約6ミリ)以上の幅で(裂が)覆い隠す様な、粗雑な表装が行われているので、長い間所有者にあまり関心(興味)を持たれて来なかった可能性はあります。
e0259194_02174982.jpg

なぜ仏表具の軸先に金物が使われる様になったのか、と言うことの合理的な説明は殆ど語られていない様ですが、牙や骨などの殺生(宗派に依っては、戒律で禁ずる)で得られる材料を避ける(表具師の拡大解釈?)ためだったのかもしれません。



実際にこの画を蘆雪が描いたという客観的な立証は、今更誰にも出来ないのですが、この様に真面目に写された画なので、少なくとも江戸中期の風俗を知る上での希少な資料(大文字送り関する歴史的資料は、残念なことに、多くは残ってないのだそうです)とは言えるでしょう。




一般的に、有名な絵描きの初期の作品には、「若描き」と呼ばれて、あまり高くは評価をされない傾向がありますが、長沢蘆雪の場合には、殆どの作品で制作時期の情報が残されていないことから、逆にその謎への関心が高まります。
(物理的年代測定はしていませんし、その予定もありませんが、個人的には、見飽きない好きな画です)











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by Ru_p | 2017-07-21 20:05 | アート・コレクション | Comments(0)

古今集の古筆(その2:素性法師)

伝 素性法師(三十六歌仙の一人)筆   17007 16×23

ちっぽけな紙片ですが、平安貴族文化の貴重な資料の様です。
以前、どなたか研究者の方が、朱でチェックを入れた形跡が見られます。
(紙料の劣化具合には、千年以上の歴史の風情も感じられ・・)
e0259194_03135688.jpg









勝手な想像による 文書の意味
  雲林院歌会での控え(私的メモ)
    記載日;寛平初年3月?日(西暦889年4月?;「寛平御時后宮哥合」以前の春で、京都の山桜が散る頃)
    記録者;素性法師(桓武天皇の曾孫/当時は雲林院に住んでいた

自己流での 読みと解釈
       赤文字:変体仮名部分を現代の仮名文字に変換
       青文字:濁点等を加え、一部漢字に直し、現代語風に変換

      
  雲林院にてさくらのちりけるをこそよめり
  雲林院にて 桜の散りけるをこそ詠めり
      
     素性法師
     素性(そせい)法師
      
    をイ 
 花ちらす風のやとりはたれかしる我にをしへよ行てうらみん
 花散らす 風の やとり(居所)は 誰か知る 我に教えよ 行て恨みむ
   (古今76)  
    さくらの花のちり侍りけるをみてよめる
    桜の花の散りはべりけるを見て詠める
      
      
     承均法師 貫之カヲヒ 紀文時カ子也
     承均(そうく)法師 貫之が甥 紀文時が子也
      
  桜ちる花のところは春なから雪そふりつつきえかてにする
  桜散る 花の処は春ながら 雪ぞ降りつつ 消えがてにする
   (古今75)  
    雲林院にてさくらの花のちるを見てよめり
    雲林院にて 桜の花の散るを見て詠めり
      
      
  いさ桜我もちりなん一さかりありなは人にうきめみえなん
  誘(いざ)桜 我も散りなむ 一盛り ありなば人に 憂き目見えなむ
   (古今77)  
    花モ一サカリ也花ノ盛リニ我モチリナン
    花も一盛り也 花の盛りに 我散りなむ
      
     世ニナカラヘハ
     世に 長らえば
      
    人ニウキ目見ヘナント云也
    人に憂き目見えなむ と言う也
      


後に古今集に載る有名な春の歌三首が、雲林院(かつては京都の桜の名所)の私的歌会にて初めて作られ披露された時の作者(素性法師)自身による記録の様です。

素性法師自作の一首(頭に〇印)と、承均(そうく)法師が詠んだ二首とを記録した文書で、その内容から素性法師にとって、承均法師は、恐らくこの日が初対面で、紹介された内容をも同時に記録した物の様です。

その、承均法師の身の上に関連する記述の部分には、素性法師が親しくしていた紀貫之の甥で、父は紀文時であること等、殆ど世の中に知られていない情報が記載されていますので、原本(真筆)であれば、歴史資料として重要な意味がありそうです。




ところで、三首目の「いざ桜・・・」の承均法師の歌ですが、もう一花咲かせてから自分の人生も散らせたいと言う意味もあるとすれば、出家した僧の作としては、何とも俗世間に未練を残している心情が見え、妙な若さを感じます。(読みの仮名を表音文字と見ると、幾つかの意味を曖昧に掛ける事が可能なので、そんな遊び心が求められ/この歌会では、他にどれほど参加者が居たのか不明ですが、作者はその場で歌にコメントを述べていた様ですね)
この日が承均さんの、歌会初デビューだったのでしょうか?その新鮮さ故に老いた素性法師が気に留めて、この歌を選び残したのかも知れませんね。

それが、親友の甥へのエコヒイキだとしても、また狭い貴族社会だけの出来事なのだとしても、千年前の人も現代人も、心はそれほど違わない様で、なんだかチョット親近感が感じそられうです。




この頃の貴族が使った紙は、おそらく「唐紙(中国から輸入した紙)」でしょうが、こんな良い状態で残っているとは、紙と墨って、非常に優れた記録媒体なのですね。
















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by Ru_p | 2017-06-23 20:14 | アート・コレクション | Comments(0)


妄想猫の起末具連記


by Ru_p

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