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学問の神

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〔伝〕一之(いっし)筆 文昌星 図 紙本肉筆31.4×77.1 19012

『文昌星(ぶんしょうせい)』(又は文昌宮)は、古代中国での星座名で、「北斗七星」(又は「ひしゃく星」:西洋の星座で言う『大熊座』の一部)と、ほぼ重なります。(例えば、七夕伝説の星たちも、古代中国での星座が基です)

星の日周運動の中心に位置する「北極星」とその近くの「北斗七星」は古代中国では、信仰の対象だったそうです。

その古代中国では、「北斗七星」の第一星(北極星に最も近い星)を『魁星』、それに続く六つの星を『文昌星』と呼び、神格化して、宿星とも見ていた様です。

隋から清の時代の「科挙(かきょ:中国で行われていた官吏採用を決める為の国家試験)」の受験生等に、「学問を司る神」として盛んに信奉され、後に日本へも、その性格が伝えられて来たました。(筆を持つとされる姿や、名に「文」の字があることから「文学の神」としても)

参考で、『文昌星』について「Art Wiki」で見付けた解説の一部を下に貼ります。
【前略】
画題辞典文昌星は宿星の名にして文學の神とする所なり、史記天官書に「斗魁戴二匡六星、日文昌星、一日上将、ニ日次将、三日貴相、四日司命、五ロ司中、六日司禄」、是れ文昌星の名の出處なり、斗魁は北斗の第一星にしてその戴く六星は即ち文昌星なり、古末文昌の名ある為めに支那に於て學士科第を祈るもの尊崇し、遂に文學の神とするに至る随つて彫刻にも絵画にも多く図せらうる
【中略】
(『画題辞典』斎藤隆三)東洋画題綜覧支那で謂ふ星の名、北斗星の魁前にある六つの星、禍福を計り天道を明かにし、天下を経緯するを主とすといふ、図には上に六星の筐形に連るあり、下に鬼形の者、右に筆を執り、左に印を握り、左足をあげ、振り返り印櫃を仰ぎ見る状を画く。
【後略】



上の解説文中の「史記天官書」(司馬遷の編纂)の基となった「天官書」には、既に4世紀には星座が体系化されていて、『文昌星』が、「北斗七星」の2番目から7番目の6つの星を指しす事も記されていた様です。

上の画の画題の『文昌星』は、古代中国の伝説の「神様」の姿なのですが、本地垂迹などの解釈が関係してか、ここでは「仏画」での「仏尊」として扱われる事になっている様です。

仏画は宗教画ですので、尊像に対する畏敬の念もあり、多くの場合には無落款(作者名を記さない)となり、別に資料が残っていない場合には、作者の特定が難しくなります。

但しこの画には、「外題」と書かれた古い封に入った「添え書き」が二枚付属されていました。
内一枚には、「文章星」「僧一之」の文字と「岫雲齋」の朱印。
もう一枚には、「兆典主弟子」「無印」「識」の文字と「紹惟」の墨印(内容と表現からみて、寺の関係者による「極め」の様ですが未詳)。
(ここで『文章星』の「章」は、「昌」の字と読みが同じなので使われている様です)

そこに記された「兆典主」は、臨済宗の京都東福寺の典主(でんす:仏殿管理の位)「吉山 明兆」(きちざん みんちょう:1352-1431;室町時代前~中期)という画僧を指すと考えられます。

また、その「弟子」であった「一之 (いっし/ ? -1394;南北朝~室町時代)」は、同じく東福寺の蔵主(ぞうす:経蔵管理の位)で,「江蔵主(えぞうす)」とも呼ばれた画僧だった様です。
(「一之」 は、師の吉山 明兆に酷似の画風で、仏画・人物画にすぐれていたと言われていて、一説には、鎌倉建長寺の僧でもあったとか)

「一之」の、参考と出来そうな遺作は少ないのですが、東京国立博物館に所蔵されている、「〔伝〕一之 筆」とされる『白衣観音図』の画像が、ネットでも公開されていました。
(これらの画は、真筆であったとしても、もう600年以上もの長い時を経た物ですから、残念ながら客観的な立証は、誰も出来ません;材料の制作年代の測定くらいならば可能でしょうが)

生年や年齢差が不明ながら、師の明兆が42歳となる年には、弟子の一之の方が没してしまった事になるので、画業が極めて短かったと想像されます。
「師に酷似の画風と言われながらも、仏画という性質上、師の扱った画題から大きく外れる事は考えにくいです。となれば、この「文昌星」という画題でも、師の明兆が、それなりの解釈で、先に描いていたであろう事が想像されます。(確認出来る資料が無い事は残念ですが)


ところで、同じ「文昌星」の画題で、「一之」の頃よりも400年以上後の江戸時代後期(1843年頃)に、敬虔な仏教徒であり、北極星を、中国の神話にも基づく守護神の宿星(妙見菩薩)として崇めていたと言われる、葛飾北斎の筆による『文昌星図』(島根県立美術館蔵)が、ネット検索で見付けられます。

そこで、上の〔伝〕一之 筆の画と見比べてみますと、先ず、左手の持ち物が、異なっている事に気付きます。

江戸時代に生きた北斎には、更に昔の時代の画や彫刻を見て参考にする機会もあったでしょうが、彼の描いた『文昌星図』での左手には、「枡(〼の形)」が描かれています。
これは、中国から日本に伝えられてから長い時間が経った江戸期以降には、北斗星の魁星(「斗魁星」とも呼ばれる)の文字が「枡(木製などの計量容器具)」を意味する(という誤まった解釈が主流となり、それを基にして描かれた)事に依るそうです。
(古い中国の像では、左手に「枡」でなく、「印筺」を持っているそうです)
「ひしゃく星」とも呼ばれる北斗七星の形を「容器」としての枡と、その「柄」の部分とに見立てた解釈からも、日本での誤解が生まれてしまったのでしょう。

《知らずに見れば、頭上の星が、「節分の豆」の様にも見えそう・・》

一方、〔伝〕一之 筆の「文昌星図」の左手の持ち物ですが、こちらも本来の持ち物(?)とされる「印筺」と言うよりは、むしろ「経典」(仏法の?)の様にも見えます。

これは、画の作者が、「経典」の方が「学問の神」の持ち物として相応しいと感じたからでしょうか。

《古い中国の神様を、既に仏法の守護者であったかの様に、都合よく拡大解釈したがった、当時の「日本の仏教」の影響で、この様に描かれたのでしょうか・・?》

そして、〔伝〕一之 筆の画での姿では、体は人の形ですが、顔は不気味に髭が長い「龍」の様(角は無い)に描かれています。
「鬼」の顔よりも、「龍」風の方が「学問の神」として、幾らかは知的に見えそうだったからでしょうか。

果たして、これらの画の作者たちは,それぞれの時代に、どの様な手本を参考としていたのでしょうか。
今後、北の星空を眺める時には、そんな事を思い出して空想してしまいそうです。

《もっと信奉していれば、学業で悩まずに済んだ・・?》







【参考】
e0259194_14404232.jpg「文章星図」 河鍋暁斎筆(1887年)
(河鍋暁斎記念美術館蔵/アルフレッド・イースト旧蔵)より




# by Ru_p | 2019-07-07 16:06 | アート・コレクション | Comments(0)

大相撲が来た!(仙厓)

仙厓義梵筆 相撲博多興行の図 紙本墨画 30×51 18022
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画は、相撲の「行司」が、軍配を持って、何かを叫んでいる様に見えます。

仙厓さんの時代、代表的な娯楽の一つだった相撲の本場所は、江戸と大阪で行われ、収益の大きい地方での巡業にも出張る事はありましたが、九州福岡での興行は、珍しい事の様でした。
(歴史的には、1596年にも、福岡県に来ていたという記録があるそうですが)


天保5年(1834)、現在の「福岡県福岡市博多区中洲中島町」付近が、黒田藩の財政再建目的の改革に依って、相撲や芝居などの興行地として、大々的に整備され、それが現在の「中洲」の原型となり、以後歓楽街として栄えて来たのだそうです。
(元来は「神事」でもあった相撲が奉納される事もあり、中洲の小さな稲荷神社が、その時名前を中洲國廣稲荷神社と改められ、建物や境内も立派に改装されたそうです)


仙厓さんの、相変わらず下手くそ風ながら、妙に味のある画と文字との自画賛ですが、
変体仮名の部分を、平仮名に直してみると、

「西東し 
 隔てて 
 力らあらそふも 
 おさまる御代に 
 大坂の関」

と書いてある様で、更に現代語風に直すと
西東 隔てて力争うも 収まる御代に 大坂の関
となりそうです。




この画と似た画題の作品が、「出光コレクション」に見られましたので、この賛文の意味を、理解する為にも、そちらの方から、詳しく検証して見る事にしました。

その画には、中心に大きく、二人の力士と、その左脇に小さく行事が描かれています。
その力士等の腹部分に書かれた賛文には、

「西東し 
 れて 
 力らあらそふも 」
 「おさまる御代に 
 坂の関」

と(捺印の無い署名とが)、書かれている様です。
上の画と微妙な違いはありますが、殆ど同じ文が書かれていますので、これが、これらの画の主題と言う事で、同じ日の事を描いたのだろう、と考えられます。

【参考図】(出光コレクション)
画像は、「仙厓」(古田紹欽著)より
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こちらの画の周囲には、更に説明文(メモ)が幾つか記されています。

①右の力士の上には、「」。
②左の力士の上には、「緋縅」。

③行司の上には、「八年 木村友市」。
④中央の下には、
甲午春於 博多中島
青天十日
大相撲
興行


と、書かれています。

④の「甲午春」は、干支から、天保5年(1834)の春の事です。

その時代に活躍していた力士、と言う事からは、
①の力士の「電」は、「稲妻 雷五郎」(1802-1877)だったろうと考えられます。
「稲妻 雷五郎」は、同じく松江藩お抱えの力士で、その時は既に亡くなっていた雷電爲右エ門(1767-1825)と比較されるほどの強豪力士だったので、雷電の再来との期待もあった様ですが、ここでは単に、仙厓さんが「雷」を「電」と誤記したのではないでしょうか(又はそう呼ばれていたからか?)。

②の力士で「緋縅」は「二代目 緋縅力弥 (1799-1836)」
だったろうと考えられます。

また、「青天十日」は「晴天十日」の事で、屋根の無い地方の巡業では、立ち会い十日間の日程は、雨天順延のお天気任せだったと言う意味もありますが、その千秋楽を仙厓さんは観た、と言う事なのでしょう。


当時満84歳だった仙厓さん(亡くなる3年半前)ですが、この時に観たと思われる、特に体格が立派な「緋縅(ひおどし:二代目 緋縅力弥)」の太鼓腹が、殊の外気に入った様で、他にも何枚もの画に、その姿が残されています。




ところで、上に画で、本題となる画賛の方ですが、
相撲は、神前に奉納する事が本来建前でしたので、同じ一門の力士同士であっても、便宜上「東・西」の組に分けられて闘います。
また、「大坂の関(逢坂の関)」は、百人一首の蝉丸や清少納言の歌から、語呂からも「別れ」や「逢う」を象徴的に扱うする名所(関所)として有名でしたが、この場合には、戦いが済んだ後の、力士同士(および、仙厓さんや観客も含めての、ファンサービスの一環としても)の幸せな「出会い」の一時を、「戦国乱世の後の平和な世の到来」に見立てた事や、相撲の本場所が行われた大阪の「関取」と、「関所」の「関」との掛け合わせなどが含まれる、などとも考えられます。

一応書かれている画賛の「歌」としての出来映えや、「禅画」としての奥深さが、どうこうと言うよりも、この画からは、自然体の人間仙厓さんにとって、この相撲興行が、とても印象的で、目出度い(嬉しい)出来事だった事の方が、強く伝わって来そうです。
(わずか8歳だったという、少年行司の初々しさからも・・・)




※ちなみに、この年の「稲妻 雷五郎」(緋縅と共に「横綱」級のスーパースター)は、江戸の本場所は全て休場していましたので、大きな収入源もとなり、一度出ると、数ヶ月間も掛かると言われる地方巡業が、いかに重要な位置付けであったのかや、当時は熱狂的な相撲・力士ファンが、世間にいかに多かったのか、が伺えそうです。







# by Ru_p | 2019-06-04 19:53 | アート・コレクション | Comments(0)

羽蝶蘭開花し始め

入手後三年目の交配実生株が3鉢開花。
一年ごとに、株が育つ事に連れて咲き方が、中裂片(ちゅうれっぺん;中央下部の大きめな唇弁)は、大きくなり、後ろ側に反る様に変わる傾向がありますので、小さい株で入手する場合には、将来その様に変化する事を予想して選ぶ事にしていますが、何れも、少し反り過ぎの様ですね。(小株の時に円く見えた花形でも、成長すると縦長の楕円に近づく傾向があります)
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白紫点系(花粉塊が黄色いので、白花にも近い性質と思われる)の原種株。
派手さはないのですが、見ていて落ち着く気がします。
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# by Ru_p | 2019-05-30 19:34 | 東洋蘭 | Comments(0)

カタツムリの「書」? (芦雪)

長沢芦雪 筆 蝸牛(カタツムリ)図 紙本彩色肉筆 27.6×122 19011
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カタツムリが二匹描かれている、という事に違いはないのですが、
画としての主役となると、カタツムリの本体よりも、むしろ・・・・。



落款は、印象だけでなく、署名もされているのですが、不明瞭なので、見過ごされそうです。

【上の画の落款署名を拡大した画像】
(但し右画像は、筆跡比較のため色調調整してみたものです)
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この署名の文字(上の左側の拡大画像)の色が暗くて不明瞭(背景の地色に近く見える)なのは、使われた絵の具に、変色し易い成分が含まれていて、(意図的または保存環境の影響かで後に)黒っぽく変色してしまった可能性も考えられます。

例えば江戸中期に尾形光琳(1658-1716)が描いた、国宝の「紅白梅図屏風」の川の部分の黒っぽさは、意図的に硫黄を使い、銀箔部分を黒く変色させていたと考えられている様ですので、研究熱心だった芦雪ならば、そんな大先輩の手法を知っていて作画効果の為に利用した可能性も考えられそうです。

また、この「平安蘆雪」と言う楷書体の署名は、芦雪が20代後期(天明年間の初期)で、まだ駆け出しだった頃の作品に見られるものと、似ている様です。


ところで、上の画と酷似の作品が、クリーブランド美術館の収蔵品の中にもあり、ネットで公開されてます。
(下に参考画像)


【参考】長沢芦雪 筆 蝸牛図 紙本彩色肉筆 40.6×114.3
(Cleveland Museum蔵)
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この(クリーブランド美術館の)画では、落款署名の金色の文字には、全く変色した様子が見られません。


作品の寸法や縦横比率が異なりますし、署名に使った絵の具(金泥など)の調合が幾らか異なる様ですが、書体や背景地色などの要素では、双方共によく似た雰囲気が感じられます。
それに、二つの画でのカタツムリ部分は、形や塗り分け方が極めてよく似ていますので、その部分に関してだけは、同じ下絵(二種類一組の同じ型紙を使い分けて)で描かれたものの様です。
おそらく、これら二つの画は、極めて近い時期(天明前期?)に制作されたものと考えられます。

芦雪は他の作品を見ても、自身の署名には、それなりの拘りを持って使い分けていた様ですので、場合によっては、文字が目立ち過ぎて浮く事を懸念して、目立たぬ様に(「隠し落款」風に?)バランスの調整を試みたという可能性が考えられます。

ちなみに、カタツムリの通った軌跡の部分には、(おそらくどちらの画にも)絵の具として、ニカワに解いた白雲母(?)の粉がラメの様に使われていて、暗い背景の地色とも相まって、カタツムリが分泌した粘着物に似せて見せる表現を試みたものと思われます。

【軌跡部分の拡大画像】
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芦雪は双方の画で、軌跡のうねり具合の趣に拘っていた様で、意図的に雰囲気を変えてみたものと思われます。
(あたかも、前衛的な「書」を試みたかの様に)



芦雪の描いた、他の似た作例、と言う意味では、ナメクジの図でも軌跡(足跡?)の試みが見られます。

そのナメクジ図の方は、草書体の署名の特徴から、寛政年間後期に制作されたものと思われます。
芦雪の最晩年に近い時期と言う事もあり、手慣れていた為にか、型紙(下絵)は使わず、淡墨と淡彩だけで、一気に描いた様です。
白地の紙にですが、ナメクジの単純な形と薄い墨色の軌跡で、「書」の雰囲気は強調されています。

【日本の『前衛書』の先駆者!】
これらの画(前衛的な「書」)には、当時奇抜だったと思われる画題や画法に挑戦した、芦雪の「遊び心」の「軌跡」が伺えて、とても面白い作品群だと思います。















※昔(温暖化が進む前)の日本には少なかったのでしょうが、ナメクジやカタツムリの体内および分泌する粘液には、近年海外から入って来る様になった「広東住血線虫(主にネズミが媒介)」や「ロイコクロリディウム」などの寄生虫が、潜んでいる事もあるそうです。

それらの寄生虫が、人の口から体内に入ってしまった場合、脳や脊髄にまで達すると、死亡する例も少なくないそうですので、触れた手や、分泌粘液の付着した生の野菜などは、よく洗わずに口にする事のない様に注意しましょう。
当然、カタツムリやナメクジ以外の生き物であっても、食物連鎖と言う観点で見れば、人が生のまま口にすれば、感染する可能性があると考えられます

今後は子供たちも含めて、野外で活動したら、必ず手を洗うと言う習慣の徹底が、強く求められそうです。



カタツムリに罪は無いのに・・・


# by Ru_p | 2019-05-04 20:19 | アート・コレクション | Comments(0)

卓越の一枚(胡 也佛)

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胡也佛 筆 花園の裸婦(軸装) 紙本肉筆 32×53 18033

巨大な蓮の上で寛ぐ女性の、微妙に妖しい表情や存在感が見事です。

この画を見た時に、細く滑らかな描線と、バランス良く塗り込まれた面の美しさとに感心しました。

髪の毛の巾は なんと0.1ミリ前後と、毛筆では極限的。
難しい葦の葉も、しなやかで伸び伸びと描かれています。
(拡大して見るまでは、肉筆?まさか縮小印刷?と見紛いそうな細かさ)


(目の部分拡大)
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見詰められると、心も揺らぎそうな瞳 (直径は わずか 0.7 ミリ程)


それでいて、無駄な時間は掛けず、手際よく仕上げられていた様です。

【日本では殆ど無名の作者、でも、中国では・・・】
「胡也佛(1908~1980;本名=胡國華/浙江省出身)」の作品の存在を知り、その技量の高さに関心を持ったのは、比較的最近の事で、それまでは名前も知りませんでした。

その名前をネット検索してみましたが、日本語での情報が全く見付からず、沢山有った中国語表示のサイトの内の幾つかの内容を、翻訳機能で日本語に変換してみましたが、全く意味は掴めず、仕方なく、繁体字の文から、漢文だけを選び、強引に解読を試みました。(ここのブログが日本語サイトでは初の「胡也佛」情報となるかも知れません)

それ等の中国語のサイトに依れば、恐らく下記の様な内容かと、(独断と推理を交じえて・・)


若い頃から画が得意だったらしく、美術系の学校で学び、出版業界など幾つもの職業を経て、30歳台には仕女(宮廷女性)の画で、名を知られる様になっていたそうです。

その後も、円や楕円などを描く練習を積み重ねた事で、後に極めて精緻で優雅な線を描く技を習得していったそうです。
(息子の胡南州さんの談では、父親の也佛さんは内気で寡黙に努力するタイプの人柄だったとの事)
また、経験した職業上多くの優れた古典絵画を目にする機会に恵まれた事で、挿絵などでの表現にも深みを増す事が出来た様です。

『金瓶梅』(きんぺいばい;明時代1573~1620年頃の長編小説;「四大奇書」の一つと言われ、原本は現存しない)復刻本の挿絵画家として、胡也佛さんが70年位前(1950年前後頃)に描いた「春宮画」(中国の春画;エロティックアート)が当時は人気だったそうです。

也佛さんはその頃「春宮画」を描く事で、どうにか生活を安定させる事が出来る様になって来たのですが、その少し後に起こった文化大革命では、悲運にも、そんな作画行為が裏目となって批判を受け、作品の全てが没収・廃棄され、以後は殆ど画を描く事がなくなってしまったそうです。
そんな理由もあり、也佛さんの肉筆画作品は、残念ながら残存数が少なくなってしまったそうです。



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也佛さんは、主に挿絵画家(Book Designer:装幀師)として活動した様ですが、持ち前の画の素質に加えて、基本的な練習を着実に重ねたことで、筆の扱いに卓越した、稀に見る手練(てだれ)にまで到達出来たのだと思われます。
(現代人と違い、日常的に筆を使う習慣も残る最後期近くの時代を生きた人だったからでしょうか)

さりげなく描かれた様に見えるこの画でも、伝統的なニカワ画の技法(いわゆる「日本画」とも基本的に同じ)で描かれている様なので、版画や安易な画材の画と違い浸水に滲まず耐えることから、表装修理も可能で、将来永く(何百年も?)残せる作品としての評価も期待出来そうです。

也佛さんの活動した時代的背景(「文化大革命」の直前)や、春宮画をも描いていた事で、その後の作家としての品格への評価に、中国ではしばらくは影響があったのでしょうが、この上手さに対しての日本での知名度の低さが、少し不思議に思えました。
(例えば、北斎や歌麿などの日本の殆どの有名絵師たちでも、落款名を変えるなどして「春画」は描いていましたが、その理由で作品全体の評価を落とす事はなかった様です)



也佛さんの他の作品を見る機会が無かったので判りませんが、この画に関しては、描線に迷いがなく、署名に風格がある様に感じられますので、比較的晩年の作品だったのかと思われます。

落款署名の「佛」の文字や、蓮の上の女性と言う設定もあり、『蓮池観音』と言う仏画をも、連想してしまいそうな、ちょっと不思議な雰囲気の画です。
(裸婦と言う画題にも関わらず、作家の「内気さ」、「寡黙さ」まで感じ取れます)

こんな画を飾って、お茶(又はお酒?)でも飲めれば、素敵な異世界と出会えそうな・・













# by Ru_p | 2019-05-04 20:18 | アート・コレクション | Comments(0)

虎も、猫並み

長沢芦雪 筆 四睡図 絹本淡彩色 68.7×32.2 19004
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これは「四睡図(しずいず)」と呼ばれ、禅で得られる境地と関連の深い、古い中国の仏教伝説を基にした画で、左から拾得・虎・豊干・寒山、の四者が描かれている様です。

凶暴で怖ろしい(はずの)虎ですが、あたかも飼い慣らされた猫の様に扱われる事への、見る側の驚きを狙った画題なのでしょうが、何やら深そうな『禅』の精神性よりも、無邪気そうに眠っているモデルたちの表情が、何とも可愛らしく、大好きな楽しい画です。




古くから多くの絵師たちが、この「四睡図」の画題を描き残していて、芦雪も何点か描いていた様です。

ネットで検索では、下の様な作品も見付かりした。

これらの画を見ていると、芦雪が虎を猫として見ていた事が、よく解ります。








# by Ru_p | 2019-05-04 20:17 | アート・コレクション | Comments(0)

江戸でもコスプレ?(鈴木芙蓉)

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鈴木芙蓉 筆 (見立て?)唐美人図 絹本肉筆 32.5×96 18023

鈴木芙蓉(すずき ふよう;1752-1816年)は、江戸時代中~後期の日本の文人画家で、江戸南画様式の確立に影響を与えた人物だったそうです。
信濃国(現在の長野県飯田市伊賀良)に生まれ、若くして江戸で画や儒学を学び、当時の著名な文人達との深い交流を通して互いに高め合い、後に徳島藩の御用絵師となった人だそうです。
(有名な谷文晁の『師』とも『弟子』とも言われる関係だったそうですし、当時の文人情報ネットワークの要人と言われる木村蒹葭堂とも交友関係があったそうです)

自身は、『絵師』よりも『儒者』(儒学者;得意分野を活かして)としての召し抱えを望んでいたらしく、画は職業としてではなく、『文人』の余技(達観した趣味人として;本来の『芸術家』的な表現者のあり方を求めたのか?)と言う立場で、もっと自由に、好き勝手に描き続けたかったのかとも思われます。
(その時代の「儒者」への求人は、残念ながら減る傾向にあったそうなのに、そんな生き方がカッコ良く思えたのでしょうか?)

芙蓉さんは、『儒者』を目指したこともあり、中国文化への憧れが強かったらしく、他の画のテーマでもその傾向を好んでいたそうです。

この画のテーマは「唐美人」(「唐」は、必ずしも「唐時代」という意味ではなく、「中国の」という意味として)なのでしょうから、中国から渡って来た画を参考にしていたのでしょうが、その緑色の唇は、文化・文政以降に日本中で大流行したと言われる「笹色紅」(紅花の抽出物の液が、乾燥後に緑色に見える状態となる性質を利用した高価な「口紅」)を表現したものと思われます。
しかしその頃までの中国では、必ずしもその色の口紅の文化は起こっていなかった様です。

この女性の顔も、中国絵画で良く見らる小顔で控え目な表情とは異なり、何か強い主張を感じさせていることから、おそらくは、芙蓉さんの身近な特定のモデルさんを、画の中で(遊び心で)コスプレさせ見立てで、『唐美人』風に描いて見せたのではないか(?)と思えてしまいます。

当時流行の美人ではないまでも、何となく優しさを感じさせる、魅力的な人柄が伝わって来る様で・・・


















# by Ru_p | 2019-02-17 19:32 | アート・コレクション | Comments(0)

『虎図』のモデル? (芦雪)

長沢芦雪筆 見返り猫 絹本  37.5×90.5 18028
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(毛繕いする猫の、顔の拡大)



e0259194_08552672.jpgカメラ目線ならぬ絵師目線。
いかにも鼠を良く捕りそうで、気儘なオスの雰囲気。

丹念に毛繕いをしていますので、雲や湿気を感じて、天候の崩れを予感していたのでしょう。

ご近所で顔馴染み野良君だったのかも知れませんね。

街中で暮らしていても、野生の本能を強かに失わない、こんな猫達が、当時は虎図のモデルに見立てられていたのかも知れません。

この画には、型通りではなく、見たまま感じたままを描く、という写生の意思が感じられます。
ヒゲの曲がり具合や、瞳の形、毛皮の陰影まで、猫の生態が実に良く捕らえられていますし、対象と真摯に向き合い観察して来たそれまでの体験も、大きく参考となっていたのでしょう。




芦雪は似た毛並みの猫の画を何枚か残しているようなので、それらは近い時期(野良猫ならば寿命はおそらく数年なので)の作品なのかも知れません。
(「蘆雪」の落款の書体と印章を見ると、応挙の代理として南紀に赴いた天明7年;1787;34歳頃までの作品に似た物が多い様に感じます)

無量寺の襖絵の猫たちにも、近い雰囲気が感じられますが、この猫の寛いだ表情には、芦雪の心理状態も反映されていたのではないのでしょうか。









猫は、芦雪にとっても見飽きない・・・













# by Ru_p | 2019-02-10 13:25 | アート・コレクション | Comments(0)

中年北斎の美人画?

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伝北斎画 新吉原見送り花魁図 紙本肉筆 式亭三馬賛 28×95 18030


画賛を書いた式亭三馬(しきていさんば;1776年-1822年2月27日)が、存命で、名が売れて、活躍しいた時期を考えると、この画の作画時期は、1810~1820年の前後と推測出来そうです。

それは、北斎が号を「北斎」から「戴斗」に改め始めた文化7年頃から、「為一」を使い始める文政3年頃までと、ほぼ重なりそうです。(北斎が中年の50代頃?)

画の方では、その頃の北斎の他の席画(出先での即席描画)風の美人画に、似た筆致の作品が多く見られます。

手早い筆裁きで、無駄な線の無い、見事な表現です。
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ただ、草書の落款署名は、「北」に続く間隔が少し不自然で、次の文字も判読しにくく、「戴・?」でしょうか?(不詳)

何だか、つい「北斎」と書こうとしてしまい、一旦躊躇い、改めて続きを書いたかの様にも感じられます。
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このほぼ7ミリ角が二つと小さい連印も、「北」の下の文字が難読です。(他の作品での使用例は見ません)


この花魁は若く美しく、それなりに可愛い姿ですが、私には何だか内心で「また来てお金を沢山使ってね!」と思いつつ、客に手を振っている様に見えてしまいます。
(現代でも似た情景がありそうでコワイ!でもチョット惹かれそう・・)





# by Ru_p | 2019-02-08 11:36 | アート・コレクション | Comments(0)

雪岱の魔力

小村雪岱筆 美人立姿 絹本彩色肉筆画(軸装) 本紙55.9×43.3 18025
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 草むらから飛び去る小鳥。それを目で追い振り返る切れ長の目の女性。そんな一瞬を永遠に止めてしまった。

「小村 雪岱(こむら せったい:1887~1940年)」は、大正〜昭和初期に、日本画家、版画家、挿絵画家、装幀家、舞台装置デザイナーなどと多彩に活動したマルチアーティストでした。

特に、挿絵や版画の分野では「昭和の春信」(春信:江戸中期の人気浮世絵師の鈴木春信)とも称され、描かれる女性の表現が、華奢(きゃしゃ)でたおやか、清楚でほのかに色気を保つ事などで共通しているのですが、肉筆画作品が殆ど残っていないと言う点でも「鈴木春信」と共通しています。

雪岱という名前が一般的には読み難い事や、現存する作品数が極めて少ない事、活動した時代の社会的背景などもあって、一部に熱狂的な信奉者(ファン)がいるにも拘わらず、そんな彼の知名度は決して高いとは言えません。


ところで、上段の「美人立姿」の肉筆画には、とてもよく似た(背景もサイズも)の作品が埼玉県立近代美術館にも収蔵されえいます。

花や草の一つ一つは、それらと同様の筆致で描かれていますが、顔の表情は明らかに異なっています。
より細部を見比べてみると、上の作品では特に、目や眉、地面など背景の僅かな彩色、落款印章の種類や位置などですが、明らかに(意図的に)変えられている様に見えます。

双方とも、個人的注文で私的に描かれたのでしょうが、その違いは、単に作者の拘りによる微細な修正だった様に思われます。
ただ、顔が別人の様なので、雪岱さんは、それぞれ誰をモデルに想定して・・?



【参考①】
小村雪岱筆 美人立姿 絹本彩色肉筆画(軸装) 本紙56.5×43.2
 (埼玉県立近代美術館収蔵)
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(どちらも素敵な作品に見えますが、その違いは何に拘って?)


【参考②】
小村雪岱画 見立寒山拾得 復刻木版画(没後) 18005 42.8×28.9
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この版画の元絵の女性は、下谷の福子と赤坂山王下「宇佐見」の琴、という芸妓さん達がモデルだそうで、親交のあった作家の泉鏡花を囲む親睦会「九九九会」での馴染みだったと言われています。

雪岱さんは、
「私は挿絵を描きますのに、未だモデルを使ったことはありません」
とか、
「描きたいと思う女は、自分の内部にある記憶であって、私の心象です」
と言っていて、その「心象」とは、幼い頃に別れた母親だったり、仏像や浮世絵に由来していたそうです。
(「写実」を離れた心象画ということらしい)

②の版画の様な実在モデルでの作画は、晩年の希な試みだったのかも知れません。




雪岱さんの作品には、見る者を時間や空間を超えた、独特の雰囲気を持つ幻想の『異世界』に引きずり込む『魔力』が潜んでいると言われています。

それには同感で、時々引き込まれたくなる、ドラマチックな非日常を感じる、大好きな異世界です。











# by Ru_p | 2019-02-03 00:34 | アート・コレクション | Comments(0)

春信風? でも・・

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作者不明(印不詳)納涼美人図 絹本肉筆浮世絵  26.3×26.3 18021

落款印は、「文円堂」「堂文」とは読めそうですが、誰の事なのかは不明です。
髪型などの特徴は、江戸中期の人気絵師、鈴木春信の描いた美人画(主に版画での)を思わせる雰囲気がありますので、それに近い時代で、春信の何らかの影響が及んだ絵師の作かと思われます。
しかし、この時代の浮世絵師たちの肉筆画を比較出来る信頼出来る残存資料等が極めて少ないので、作者が誰かという想定は、しばらく難しそうです。


ただ単に、江戸中期の美人画としてだけで見れば、それなりの面白さがあります。
例えば、描かれた様々な要素から、その場の状況を考察してみるのも楽しそう。

①青竹の縁台(シンプルそうなデザイン;その構造や納まりに不自然さ?)
②黒漆塗り笹の葉柄の煙草盆(この女性が寛ぐ為?キセルが見えないが?)
③春信風の髪型や櫛飾り(簪が無いので、花魁ならオフタイム休憩?)
④桐(五・三)の紋の団扇(遊郭の紋?だとすれば何処?年代は?)
⑤竹垣の朝顔(時季は新暦なら7~11月?)
⑥着物の着方(秋物柄の羽織ですが、真夏だと暑そう)
⑦使われている絵の具(鮮やかで高級な岩絵の具が使われている/描いたのは、当時高名な絵師?)
⑧白い部分の胡粉(ごふん;貝殻を粉にして膠と練った絵の具)の剥落が多そう(古い画の宿命)なので、その上に塗られた墨や顔料も、既に一部は失われているの可能性あり。


表情にあどけなさを感じますが、小顔でスリムな8頭身以上と思われる体型なので、幼児体型を思わせる多くの春信木版画とは、幾分異なる雰囲気が感じられますね。








# by Ru_p | 2019-02-02 11:53 | アート・コレクション | Comments(0)

カミナリ怖い! (春信)

「恋文を渡そうとする雷神」 鈴木春信 画 木版 11.7×36.6 10035
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(色調レベル等調整済み画像)


耳を塞いで怯えている二人は、遊女と禿(かむろ)でしょうか。
どうやらカミナリ様の一方的な、片思いの様です。
(ですが、見方によっては、誰かをカミナリ様に見立てて隠れている場面、かも知れませんね)

この版画には、ネット検索で柱絵サイズ(11.7×68.6 cmの縦長で、約1.8倍に拡大された画)の別バージョンが見られます。
構図は酷似なのですが、十分な資料も無かったので、どちらが元の版だったのか不明です。
(カミナリ様の目の表情は変えられている様で、絵師の拘りの修正なのか?)

そちらの版画は、ボストン美術館の所蔵品の「The Thunder God Delivering a Love Letter 」などで参照出来る様です。




春信の描いたとされる美人画には、華奢で独特の可愛らしさが感じられます。



鈴木春信(すずき はるのぶ:1725-1770)の門人と言われる鈴木春重(すずき はるしげ:1747-1818){後に「司馬江漢」(しば こうかん)と改名}は、春信様式の美人画を得意としていて、多くの作品(代筆?又は贋作??)を巧みに描いていたそうですが、殆ど見破られる事が無かったと、春信の死後に本人も語っていたらしいので、場合によっては、その様な経緯のある作品なのかも知れません。

木版画は、絵師の描いた下絵を、彫り師が板に貼り、その下絵に忠実に板を下絵ごと彫るのですが、彫り師の腕に依っては、結果の雰囲気が変わってしまう事もあるので、画だけでの厳密な比較は難しそうで・・・



# by Ru_p | 2018-12-18 15:06 | アート・コレクション | Comments(0)

桃腮素が咲き、

中国では蘭が、古来「君子」のアイテムとされて来た事も有り、大変に尊ばれた植物の一つです。

中でも特に、「素心(そしん)」と呼ばれる珍しいアルビノ(突然変異などで、色素が体内にない個体)等の株は、純粋で人の「心」のあり様にも通じると見られて来たためか、大変に珍重されて来ました。(「素心」の「素」は、白又は無地を意味し、「心」は花の中心部を意味すると言われています)

蘭の愛好家は更に、花の中心下部の「舌(ぜつ)」と呼ばれる唇弁の色が、白に見える株を「白胎素(はくたいそ)」、緑色に見える株を「緑胎素(りょくたいそ)」と呼び、拘って分類区別する場合があります。
近年では、厳密に「素心」と呼べる株は、赤・紫・黃などの色素を体内に持たない純粋なアルビノの株だけとする分類が主流となっている様ですが、もう少し曖昧に、舌が黄色く見える株を「黄胎素(おうたいそ)」、白舌の喉元の両脇に当たる部分(腮:し/あご・エラの意味)が淡い杠桃色のボカシのある株を「桃腮素(とうしそ)」、舌全体に霧状などの極小点でボカシに見える株を「刺毛素(しもうそ)」、舌全体に紅色の入る場合を「硃砂素」などとも呼んで、赤や黃を多少含んでいても、「素」を感じるのでか、素心の仲間と見なされる場合も有る様です。

ちょっと不自然な様ですが、この辺りの曖昧さは、東洋的な「寛容」だったのかも知れません。もう少しこじつけて考えると、日本の有名な「閑さや岩にしみ入る蝉の声」と言う俳句で、「無音」では無いのに「静か」と感じられてしまう事とも、対比による効果の重要性という意味では、似た面が有るのかも知れません。


『杭州寒蘭』無名(桃腮素)
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軸(株の幹の部分)も子房(花の付け根から軸までの部分)も青い(緑色の日本的呼び方)ので、一見「素心」の様にも見えますが、舌(花の中の中央下部の唇弁)の奥に、ボンヤリと赤味の部分がありますので、分類の名称に「素」の字があっても、厳密な意味では素心ではないとされています。
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【参考】
「杭州寒蘭(こうしゅうかんらん」は、今から40年位前に、今では故人の黄業乾さんが、緑色部分が澄んで美しく、舌が白く輝き、花弁の周囲が白く覆輪として縁取られた寒蘭を、中国杭州の蘭集荷地にて入手し、日本に持ち込み、近所の某園芸店等で展示紹介し、それを見た人の間にセンセーションが起こり、以来、黄さんが初めて入手した地名に因んでそう呼ばれる様になりました。(他に、「水晶寒蘭」とか「細葉寒蘭」とも呼ばる事もあります)
当時原産国の中国では、寒蘭の愛好者は、それ程多くなかった様で、日本での人気が先行した様です。(その理由としては、寒蘭の花や全体の姿での「空間」の多さが、日本人の好みには合っていたが、中国では、細い花弁による花形の隙間が、あまり好まれていなかった、とする分析が成り立つと思われます)

原産地は浙江省近辺と考えられていましたが、長い間不詳でした。近年は、浙江省の他に雲南省の武夷山近辺でも似た物が自生している事が判って来ています。
花が咲いた状態の杭州寒蘭の特徴には、一般的な寒蘭よりも幾分小柄で、葉巾も狭く、香りが弱いという傾向が有ると思われます。

当時日本向け輸出の為に、数百株単位の山採り根巻き状態に梱包されて、杭州寒蘭として届いた荷では、現地での一般的な寒蘭との分別が不十分だった為に、場合によっては「杭州寒蘭」が全く含まれない荷もあり、そんな希少さ故に、日本の愛好家の間では、長いこと幻の蘭の様に扱われ、高い人気を保っていました。(ワシントン条約の締結発効よりも前の頃)

その頃の花の咲いていない状態の株での見分け方は、一般的な寒蘭(日本産の寒蘭と殆ど変わらなく見える)よりも、根が太い事などと言う曖昧な情報に頼るしかなかったので、咲いてみるまでは、杭州寒蘭なのか、一般的な寒蘭なのか、誰も正確には判断出来ない時代でした。中には、咲いた後でも区別の難しい中間的な特徴の株もあったりしましたので。
また、当時の杭州寒蘭は、一般的な寒蘭と同条件での栽培が難しかった事もあり、何年か育てた後に残念ながら枯死するケースも多く、入手だけでなく、維持も難しい蘭でした。
当初は、選別された青花(あおばな:舌の他の花弁が緑色だけの花)には、水に縁のある湖や川の名前を命名し、更紗(さらさ:花弁に赤や黒などの縞模様の筋が入る)や色花(いろばな:花全体が赤など、緑でなく見える花)には、山やそれに因んだ名前を付ける事が黄さんの流儀でしたが、特に登録すべき団体も無かったので、幸いにして新しく杭州寒蘭である事が確認された場合、その株の所有者は自由勝手に名付け命名して楽しむ事も可能でしたが、そんな暗黙のルールがあったので、今でも残る当時の選別株には、そんな名が付いている事が多い様です。

近年「杭州寒蘭」として輸入される株は、当初の物と比べて栽培し易い物が増えたと感じられますし、花も株全体の雰囲気も、幾分違って来ている様に感じられますので、昔の坪は採り尽くされて、産地は既に別の場所へと変わってしまったかと推測されます。

杭州寒蘭と、色や外観(や香り等)の特徴で近い種類と感じられる「紫秀(ししゅう)蘭」又は「邱北(きゅうぺい)蘭」と呼ばれるシンビジューム(無香の種類)も原産地の近くに自生しているらしいので、おそらくは、その蘭と一般的な寒蘭との自然交雑の結果に産まれたのが「杭州寒蘭」だったのではないかと想像されます。近い将来ゲノム解析で、謎だった素性が明かされる事になるかも知れませんが、それまで昔の株を維持保存出来るのかどうかが心配でもあります。

杭州寒蘭での純粋な「素心」の株も、最近は現産国で多く培養されて来ているので、入手は比較的容易になって来たのですが、私は必ずしも「素心」を好んでは求めてはいません。(出荷元の中国での人気が異常に高く、日本での入手がまだ難しい事と、我が家では素心も有る事は有るのですが、今期は咲きそうにないので、負け惜しみもあるかな?)

杭州寒蘭の一番大きな魅力は、形だけでなく、全ての青い(緑色の)部分に黄色っぽさに依る濁りが感じられない事で、スッキリくっきり爽やかな雰囲気がある事だと思っています。
その意味で、「素心」の株を見直すと、殆どの株で、緑色の濃さ(コントラスト)が弱く、黄色味を含む一般的な(杭州寒蘭でない)寒蘭との違いが、あまり明確には感じられずに、寂しい気がしてしまいます。
つまり、緑色の濃い、スッキリくっきりの美しい株は、多少なりとも赤などの色素を含んでいて、舌や花弁周囲の覆輪部分が相対的に際立って白く見える事だと、私は感じて評価しています。






日本や中国に分布自生しているシンビジューム属で、「春蘭」「寒蘭」「一茎九花(華)」などの「東洋蘭」と呼ばれている仲間は、順調に育てば、毎年の様に新たなバルブ(擬似球根)が、普通は生まれて2年目位のバルブに連結する様に1~2個づつは殖えて連なりますが、個々のバルブの寿命が、せいぜい数年間と長くはないので、全体が大株に増殖発展([新たに生まれるバルブ数]引く[古くて枯れるバルブ数]との差の増加)するには、とても永い時間を要します。
自然界では、その個体の遺伝因子が忠実に継承される繁殖は、種子ではなく直接連結したバルブでの増殖だけに限られると考えられます。(希に、根に近い地下茎が延びて、増殖が行われることがあると聞く事もありますが、私はまだ検証した事がありませんので)

そんな自然界での繁殖では、大株に育ち、古いバルブが朽ちる事に依り、自然に株分けがなされ、自生範囲が徐々に拡がるとも考えられますが、人為的な介入などが無いとすれば、とてつもなく永い時間を要し、その株に極めて近い場所(山採りでは「坪」とも呼ばれる)を越えて拡がる事は難しいと考えられます。
種子による増殖では、風で遠くまで飛ぶ事が可能でしょうが、自家受粉であっても、その個体と100%遺伝子情報が同じ株の出現は、必ずしも期待出来ないので、似ていたとしても、当然別の株なのです。
つまり、選別評価された名品の株などは、自然界でそれが育った坪の他では、同じ物が(ほぼ)見付けられない事になりますし、人為的な栽培増殖にも、それなりの時間が掛かる、そんな原因でか、培養に要するしばらくの期間は流通が滞り、趣味者・愛好家・収集者にとっては羨望により、まるでアイドルの様に「まぼろし」と化して高騰してしまう様です。(冷静に見れば、たかが「草」なので、待っていれば似た物も出てくるのしょうが)

最近では、山採りの株を人が栽培し、特に優れた形質と判断された場合には更に「メリクロン培養(生長点の核を、薬剤等も併用して分割増殖させる培養方法)」で増やす事も可能にはなりましたが、人間による選別では、どうしても偏りが起きがちで、例えば「素心」への評価などは、希少品だという先入観が強過ぎていると感じます。
その他多くの無名の蘭の場合でも、意図的に株分けされない限り、殆どの鉢がこの世に二つと存在しない、それぞれ別の個性を持った大切な命の希少品なのです。(この辺は、なんだか人間にも似ている気が・・)
そして、それぞれの株の個性は、自分で気長に育てたり、無駄な先入観を捨てて観察してみると、結構大きな違いとして発見出来る事があります。

そこが、趣味の東洋蘭栽培での一つの面白さでもあるかと思います。
他人の価値観に踊らされ振り回されていては見付けられない、深い楽しみの・・・



『杭州寒蘭』無名(あお更紗色/舌前面無点/五弁ともに覆輪あり)
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私は、寒い冬に咲く「杭州寒蘭」の凜とした存在感が大好きです。








# by Ru_p | 2018-12-03 18:41 | 東洋蘭 | Comments(0)

ツルだらけ (芦雪)

長沢芦雪筆_群鶴山水図 絹本 50.5×112 18001(上下を分割して表示)
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体が白くて頭の上の方だけが赤いのが、丹頂鶴(タンチョウヅル)で、体がグレーで目の周りが少し赤いのは、真鶴(マナヅル)の様です。

鶴たちが発って来た山は、伝説の理想郷とされる蓬莱産の様です。
丹頂鶴は、古い中国の画などでは、目出度い生き物として扱われて来ましたので、芦雪もこの題材を好んで数多く描いています。

主な生息地は、当時も恐らく全く別の場所(現代では、丹頂が北海道で、真名鶴は九州が、飛来・越冬地)だったでしょうし、鶴としての種類も別ですので、自然界ではこの様に仲良く混在する事は、まずないと考えられているそうです。
江戸時代の芦雪には、別の種としての認識すら無かったのかも知れません。
(例えば、円山派の虎の画では、豹を雌の虎と解釈して描いたものもありました)







# by Ru_p | 2018-10-08 11:22 | アート・コレクション | Comments(0)

微笑みの石仏たち(甲斐の棒道)

山梨県の三分一湧水の水源近くに在る不動明王の石仏(独尊座像)です。
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[ 場所: 山梨県北杜市長坂町小荒間「三分一湧水」内 ]

不動明王像は、経典や儀軌に基づいて、普通は憤怒の形相に作られるのですが、この像は何故か微笑む様に眼を閉じて、とても優しそう。
石造物は、天候や時刻などの光や湿り気の具合で、表情を大きく変えますが、何れにしてもとても魅力的なお顔。(『微笑み不動』とでも呼びたい!)



ここ三分一湧水(さんぶいちゆうすい)は、その昔に三つの村で、湧き水の利権をめぐっての争いが続いたので、三方向平等に水が流れる様に策が講じられ、それ以後争いが納まり平穏が続く様になった、と言う言い伝えがあるそうです。
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「八ヶ岳南麓高原湧水群(日本名水百選)」の一つで、現在その水源地の周りは公園となっていますが、この(微笑み)不動像は公園内の、ちょっと目立ち難い位置にヒッソリと鎮座していました。

不動明王は、この水源の守り神として置かれたのでしょうが、珍しく穏和な顔なので、おそらくは争わずに仲良く水を分かち合う事えの願いが込めてられて彫られたのでしょう。





また、三分一湧水の公園を挟んで、南西と北東の方向には『(上の)棒道』と呼ばれ、武田信玄が軍事用に作ったとされる古道が延びていて、江戸時代その道には、一丁(約109m)毎に一基、計三十数基の観音菩薩の石仏が、観音霊場を模して置かれたのだそうです。
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今でも少し歩くだけで、聖観音・十一面観音・千手観音・如意輪観音・馬頭観音など、多種多彩な観音菩薩像に出会う事が出来ます。
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( ↑ 十一面観音)

観音様の手にした蓮華の先には、アシナガ蜂の巣・・・仏罰は痛そゥ!

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( ↑ 千手観音)

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( ↑ 如意輪観音)

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( ↑ 聖観音)

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( ↑ 馬頭観音)

頭に馬を載せた馬頭観音は、観音像の中では唯一憤怒の形相に作られるのが、日本では一般的な解釈なのですが、ここの像たちは、いずれも穏やかで愛嬌すら感じさせます。
(馬頭観音は、文字だけの物も含め、「富蔵山公園」内で19基見付かりました)

この地域の石仏の多くは、気候の影響で表面に白っぽい苔が着き易く、それが風情ある味わいを醸し出しているので、顔の彫りの穏和さとも併せて、更に魅力的な表情に見えます。

この付近は少し歩くだけで、他にも、庚申塔、道祖神、地蔵菩薩などの石仏(野仏群)も、手軽に見られますが、いずれも彫った職人さんのおおらかで素朴な人柄を偲ばせる、可愛らしい像達で、私の気に入りの場所の一つです。

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( ↑ 地蔵菩薩)

リーゼント風ヘアースタイルに・・・ 『毛生え地蔵』?


(何だか、ソッチのご利益が期待出来そうな~~~!)

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[ 場所: 山梨県北杜市長坂町小荒間「富蔵山公園」内 ]



こんな出会いも・・・
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(四つ葉の出現確率って10万分の?;けっこう見掛けますが)










# by Ru_p | 2018-08-10 19:16 | アート・コレクション | Comments(0)

夏の風物詩 (鳥文齋栄之)

鳥文齋栄之筆 納涼美人図 絹本(44×33)16022 
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江戸の蒸し暑い夏の郭で、花瓶を置いた文机にもたれかかり、団扇を持って、二匹の蝶の戯れを眺めて寛ぐ遊女の姿。
ここに描かれた切り花が朝顔ですし、蝶も飛んでいるので、昼間で午前中くらいの風景なのでしょう。

江戸時代には朝顔ブームが二度あり、その第一次のブーム(1804~1830)が、鳥文齋栄之(ちょうぶんさいえいし:1756-1829)の肉筆画制作の活動時期とほぼ重なっていましたので、その頃の情景ですね。

【参考】
千葉市美術館の収蔵品検索システムにも、似たテーマの画が見付かりますので、栄之の定番だった様です。
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# by Ru_p | 2018-08-01 07:26 | アート・コレクション | Comments(0)

ウチョウラン属 咲きそろい



今年のウチョウラン属は、咲き始めから、約1か月が経過して、ほぼ咲きそろいました。アンカーは、遅咲き系ですが大好きなサツマチドリです。

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アワ系実生も今まだいくつか咲いています。
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遅咲き系のウチョウランも幾つかは
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# by Ru_p | 2018-06-22 19:51 | 東洋蘭 | Comments(0)

仙厓の達磨?

仙厓義梵筆 『達磨図』自画賛 紙本 18015 31×88
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口をへの字に結び、僧衣に手を隠した、達磨(ダルマ)と思しき老人が、虚空を見上げながら、何か不満げな表情。

上部に書かれている賛文の、下手くそ(風)な文字は、
佛の佛け臭きハとへらより鼻可きつか

もっと現代語(風)に直すと、
佛のホトケ臭きは、とべらより鼻がきつか

ここで「とべら」は、節分に門の(とびら)などに吊す、鬼が忌み嫌うと言われる「鰯の頭」や「ひいらぎ」と同じ目的で使われていた、葉や枝に独特の異臭のある植物の名称です。
名前の由来は、吊してあった「(とびら)」が訛った言葉とも言われています。

禅僧の身でありながら、禅宗の開祖である達磨(?)に、画の中であっても「佛臭い」と、(博多弁で)言わせてしまう大胆さに、多くの人が驚かされた事でしょう。

見る人に「とんでもない不敬」だとか「佛罰が当たるのでは」と感じさせることで、逆に画の世界に引きずり込んてしまう。仙厓さんは、そんな奇抜な表現で、佛の教えの本質(最も大切な何か)を改めて考え直させる事を、目論んでいたのかも知れません。

江戸時代には、幕府の方針によって、寺の「檀家制度」が固められ、以後それに守られ堕落し腐りきった寺院や僧侶等による横暴や乱行が横行しましたので、宗派の違いも含めて実際に「佛臭さ」が「鼻に付く」事態は、実感していた事でしょう。

釈迦が悟りを得て、教えを説いた時代には、その「教え」は単なる信仰の対象と言うよりも、己の心のあり方を知り改める事で自身が救われる為の「哲学」の性格が強かった様ですが、時が経ち、後の人々が拡大解釈を繰り返す内に、佛への信仰心が、救いや加護を得る代償の行為と思わせる風潮が強くなり過ぎて行ったからかも知れません。


ところで、この『達磨』さんの顔は、殆ど威厳が感じられず、単に頑固そうで、お茶目な「おじいちゃん」風です。

仏画にちょっと詳しい人が見れば、当然『達磨』が禅の教えを語る画、と思いがちですが、そもそも、画の中の何処にも、この老人が『達磨』であるとは書かれていません。

その辺に、この画を読む一つの鍵が隠れていのるかも知れません。
(もしかして、単なる人物画?)

おそらくは、この「おじいちゃん」が仙厓さんご本人で・・という解釈も


「達磨風自画像」!?


相手の事を考える故に、敢えて誤解を受けたり非難される事を厭わず、
誰にでも平然と苦言暴言を並べてしまう、勇敢で心温かいひねくれ老人。
そんな仙厓さん像を思い浮かべる事で、画に共感出来る気がします。




癒やしが感じられ、好きです。
(可愛くて魅力的)











# by Ru_p | 2018-05-27 14:39 | アート・コレクション | Comments(0)

ウチョウラン始まり

今年のウチョウラン(属)の開花で第一号です。
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交配実生の株ですが、可愛い咲き方なので嬉しい。










# by Ru_p | 2018-05-21 15:09 | 東洋蘭 | Comments(1)

白隠の禅画(の4)

白隠慧鶴筆 蓮池観音座像図 自画讃 18008 29×98

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白隠さんが度々描いていた定番的な画題で、観音菩薩の図とその画賛の様です。

上部の賛は、「観音経」(「法華経」の中の「観世音菩薩普門品第二十五」)から引用した、「慈眼視衆生 福海無量」という文言の中の、一文字「(ジュ:「あつめる」意味)」を、「(ジュ:「祝い」の意味)」の文字に置き換えて、一際大きく書き、「(観音菩薩が)海の様に大きな慈悲の心で衆生を見て祝福する」と言う様な意味にアレンジして、画を目出度そうな雰囲気にも見せている様です。

内側に蓮華柄の衣を着て、蓮華の花の宝冠を被り、外側には頭から白い布をまとった、ふくよかで穏やかそうな表情の女性が、両手で印(禅定印)を結び、目を閉じて蓮池に面した岩の上の蓮華座に座り瞑想しています。
その左側には、瓶に挿された柳の小枝が蓮の実の上に載っています。

宗教的絵画で、一般に尊像が描かれる場合には、象徴的に結びつけられたアイテム(持ち物、小道具・背景、又は手足等の特定のポーズ等)が、その尊像の性格を示す約束事として描かれる事が多く見られます。
そのアイテム類は、「持物(じぶつ)」又は「アトリビュート(attribute)」とも呼ばれ、古い経典などの中に、その根拠が示されている場合も有ります。

そんな理由があるので、この女性は、「楊柳観音」とか「白衣観音」と解釈されて呼ばれる場合もしばしばあります。

しかしながら、逆の意味では、どれか一つの尊名には、特定しにくい画とも言えそうです。

場合によっては、この女性を様々な観音の化身の様に見立てて描く事で
、多くの変化観音の、それぞれの優れた能力を集約的に、ご利益として期待させたかったのかも知れません。



観音経の「観世音菩薩普門品第二十五」は、104句(520文字)の(大乗仏教の)経典とされて伝わっています。

白隠さんは、それを上の様に、たった2句(10文字)の画賛に要約して使った訳ですが、それと似た要約版に、「延命十句観音経」(「延命」は白隠さんの命名)という42文字の便利な経典(原典では無く、「偽経」とされる)もあり、(生衆が)それを幾度も唱える事で、救済(の現世ご利益)が期待出来ると信じられていたそうです。

何れにしても、白隠さんご自身が、慈悲の心を持って、生衆の救済を望んでいたからこそ、この様な画や画賛を描き続けていた(それが、白隠さんの目指した「禅」の一つの形だった)と言う事なのでしょう。

おそらく当時は、今より多くの生衆の苦しみを目にする時代だったでしょうが、その生衆へは、白隠さんご自身と同様の「禅」の道を勧めるのではなく、観音様への祈願と言う形で救われる手段をすすめた。
(何だか、大昔のお釈迦様の苦悩にも似た、判断や選択の葛藤が感じられます)










# by Ru_p | 2018-05-07 19:55 | アート・コレクション | Comments(0)

月の天女

月天図 (無落款) 34×78 06011

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月天は、「十二天」(八方位と上下の他に、太陽と月をも加えた十二の方向を象徴し神格化した十二人の仏法の守護神)に属する「天部」の一人です。

その「十二天」の図(十二天図:灌頂という密教寺院での儀式に用いられる法具)は通常、十二枚の屏風や掛け軸を一組として描かれる仏画群で、日本では平安時代初期頃からの作例があるそうです。

しかし、ここの月天の胸像の様に写実的で優雅な画は、十二天図としては他に類を見ませんし、これと組になりそうな他の「天部」の画も見る事がありませんので、おそらくは儀式の法具としてではなく、始めから貴族の念持仏などの様に独尊像として描かれたのではないかと思われます。

仏画なので作者は不明(厳密な制作年代も不詳)ですが、こんなに優しそうで神秘的な天女を見れば、古の人々も心惹かれ癒やされていた事でしょう。



【参考で、ウィキペディアでの「月天」の解説を下に引用します】

月天(がつてん、がってん、Skt:Candra、音写:戦達羅、戦捺羅、旃陀羅など)は、仏教における天部の一人で、十二天の一人。元はバラモン教の神であったが、後に仏教に取り入れられた。

正しくは月天子で、月天はその略称。月宮天子、名明天子、宝吉祥との異名もある。やその光明を神格化した神で、勢至菩薩の変化身ともされる。四大王天に属し、月輪を主領して四天下を照らし、また多くの天女を侍(はべ)らし、五欲の楽を尽くし、その寿命は500歳といわれる。

形象は、一定しないが3羽から7羽のガチョウの背に乗り、持物蓮華や半月幢を持つものがあり、として月天后を伴うものがある。両界曼荼羅や十二天の一人として描かれることがほとんどであり、単独で祀られることはほとんどないようである。



なんと、元来の月天は、男神だったと・・・






# by Ru_p | 2018-03-22 12:15 | アート・コレクション | Comments(0)

白隠の禅画(の3)

鷲頭山図 白隠慧鶴筆 17009 41×108

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禅僧の白隠さんは、65歳を過ぎた頃から、多くの「禅」の教えを、自らの賛文とアニメチックな画とに込めて、繰り返し表現する様になりました。
この「鷲頭山図」も、その意味で同じテーマの画が何点か現存している様です。

賛文にある変体仮名を、母字(表音文字である仮名の元となった漢字)に置き直すと、 
見あけて見連は鷲頭山 見お路せは志け鹿濱能徒里ふね

この時代の仮名交じり文は、濁点も句読点も付けなかったので、更に現代語風に書き直すと、
見上げてみれば、鷲頭山。見下ろせば、志下鹿浜の釣り舟。
(みあげてみれば、わしずさん。みおろせば、しげししはまのつりぶね)

この画賛は、この地域で当時歌われていた民謡(作業歌?)からの引用でもあったので、地元では誰もが知っていた文言だったようです。

画にある三隻の小舟にはそれぞれ、一人が艪で東の風に向かって舟を操り、もう一人が釣り糸を手繰って魚を誘うと言う(穏やかな早朝の)伝統的で、誰もが見慣れていたであろう一本釣り漁の様子が簡潔な筆遣いで現されています。


「鷲頭山」は、富士山の南南東約30kmで、伊豆半島の付け根西側に位置し、沼津アルプスとも呼ばれる標高392mの低いながらも険しさのある山で、画とも雰囲気は似て見えますが、実物はもう少し勾配が緩い様です。
白隠(はくいん:1686~1769)さんが晩年を過ごした原の松陰寺からも、約10kmと近い場所でした。

志下(しげ)の「鹿濱(ししはま)」は、鷲頭山の南西約1kmの駿河湾に面する小さな漁村でしたが、今では読みはそのまま同じで「獅子浜(ししはま)」と言う字の地名に変わっています。


ここで、鷲頭山を見上げるべき崇高な山として象徴的に扱っている理由ですが、

お釈迦様が悟りを得た後に、『無量寿経』や『法華経』を始めて説いた聖地とされる山の名前(梵語でグリドラクータ:鷲の山を意味する/和名:霊鷲山)と通じるので、その聖地(霊山)に見立てたからと言う説が、現在までは一般的とされています。

(但し、この画の場合には、鷲頭山の背後に、「霊山」として名高い富士山や愛鷹山まで描いていあります;この画の鷲頭山の向きですと、富士山はもっと左側に見える筈で・・・ご愛敬かな?/何点かある同テーマの画の中では、構成や体裁が比較的整って見えますので、遅い時期の作品だったのかも知れません)


そしてもう一つ、(未だ何方も言及されてない解釈の様ですが)更に大きな理由が考えられます。

それは、文明元年(1469)に金比羅大権現の分霊(わけみたま)によって祀られた「鷲頭神社」が、江戸末期までは、この鷲頭山の山頂に鎮座していたと言う事です。
(明治維新の後、北東約1.5km先の天満山へ、周辺の神社と合祀しての遷座が行われてしまいましたが、その奥宮だけは現在でも鷲頭山の山頂にひっそりと残されています)

全国の金比羅神社の総本宮となる讃岐の金比羅宮(明治以降には金刀比羅宮と改称)の社殿が建っていた山は、名を象頭山と呼ばれています。象頭山という名は、もとはインドのガヤの南西にあって、お釈迦様と因縁の深かったガヤー・シーサと呼ばれる霊山の和名なので、そこにあやかって付けられた様です。
象頭山と鷲頭山(霊鷲山の別名)とは、インドでは約50km隔たった別個の山(霊山)ですが、大昔に異国にあった似通った由来と、それぞれ動物の頭を意味すると言う共通性を持つ名前なので、日本では混同される事もしばしばあった様です。

金比羅宮のあった象頭山(標高538m)は、「日和山」とも呼ばれ、海の民が船を出すかどうかを判断する際に日和を見る事(天候予測)にも利用されていたそうです。この画にある釣り人を含め、海に生きる人々は、おそらく分霊された方の鷲頭山山頂の神社にも金比羅の神の霊験を感じつつ、日々の海上安全を祈願していた事と考えられます。

金比羅神は、もとはインドのクンピーラ神と言われ、ガンジス川に住む鰐(ワニ)が神格化されたものとも言われていますが、日本では仏教に守護神として取り込まれ、「金毘羅大権現(※)」(主に海難や雨乞いの守護神)として信仰される様になったそうです。(日本古来の「神」とは無関係ながら、神仏習合や修験道が融合して、更に江戸時代の民間信仰の流行の波も加わり、当時は異常とも思えるほどの隆盛を誇っていました)




(※)

数多い白隠さんの墨蹟の中には、「金比羅山大権現」と書かれた書が複数ありますので、白隠さんは当然「金比羅大権現」に対して強い敬意を持っていたと考えられます。

(白隠さんの墨蹟;「神号」/『墨美』より;龍翔寺蔵)
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白隠さんの時代(廃仏毀釈運動が起こった明治維新よりも百年以上前)の「金比羅さん」の総本宮と言えば、讃岐にあった象頭山松尾寺の金光院に祀られた「金比羅大権現」が主祭神だった訳ですが、何故か何れの墨蹟を見ても、「金比羅」と「大権現」との間には敬称の「さん」ではなく、「山」の文字が書かれています。

(もしかして白隠さんは、揮毫の時に対の様に書いていた「秋葉山大権現」の「山」の意識が強かったので、つられて書いてしまったという単なるご愛敬だったのか?   それとも何処かの「山」 を意図して・・?)









鷲頭神社の前身(金比羅大権現を祭祀)があった鷲頭山は、白隠さんの時代(江戸中期)には、仏教とも関わりの深い場所であったと同時に、地元の庶民にとっては「見上げるべき」崇高な「山」であった事でしょう。

現存する同一テーマの他の「鷲頭山図」の中には、鷲頭山の中腹に大きく鳥居の形(神域を示すシンボル;実際のその位置に、こんな大鳥居はありません)が描き込まれている例もあります。
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(鳥居の描かれた「鷲頭山図」/『墨美』より;旧山本發次郎コレクション)




白隠さんは、同じ視界(一枚の画の中)で、崇高な聖域と庶民の日々の生業とを、対比させながらも、ごく身近に共存している様に表現する事で、「禅の宇宙観」を、見る人に判りやすく解こうとしたのではないでしょうか。










【参考】


江戸時代に「金比羅さん」として庶民に親しまれた象頭山松尾寺の金光院は、元々は神仏習合の寺社だったので、仏教(真言宗)の「寺」でもありました。
ところが、明治時代には、近代日本の歴史上の大きな汚点(政治と宗教の絡んだ)とも言うべき神仏分離令や廃仏毀釈運動での弾圧の標的とされた為に、改宗を迫られ、結果として廃寺にまで追い込まれてしまい、多くの貴重な尊像や経文までもが焼却などで失われてしまいました。


金比羅大権現尊像 (紙本肉筆:作者不詳)

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明治初期には、異なる祭神の宗教団体が、信者をほったらかしで、ご本尊共々入れ替えわってしまうと言う、大胆な組織改造の珍事が『権力』に依って強行されていたのです。(ご利益だけが目当ての多くの信者には気付かれぬ様に)
現在の『金刀比羅宮』での祭神は、大物主命(と崇徳天皇)に代わってしまい、有名な歌にまである「金比羅大権現」ではなくなっています。

(♪~♬)
金毘羅船々(こんぴらふねふね)
追風(おいて)に帆かけて
シュラシュシュシュ
まわれば 四国は
讃州(さんしゅう) 那珂の郡(なかのごおり)
象頭山(ぞうずさん) 金毘羅大権現(こんぴら だいごんげん)
一度まわれば


明治42年には象頭山松尾寺が、『金刀比羅宮』を相手に、建物や宝物の所有権返還請求の訴訟を起こしましたが、当時の高松地方裁判所に依って棄却されています。





今日の日本では考えられない様な権力による暴挙があったのですね。
(学校では詳しく教わらなかった歴史)

鷲頭山山頂にも分霊されていたる(寛大な)「金比羅大権現」の存在が、ますます有難く感じられそう・・・








# by Ru_p | 2018-03-10 17:20 | アート・コレクション | Comments(0)

富士山を見なかった?(芦雪)

富岳図  長沢芦雪筆 紙本 59×120 17020

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落款の書体や、印の欠け方から、長沢芦雪(1754~1799)の晩年に近い寛政年間後期の作品の様です。


画題として縁起物を多く描いた芦雪は、富士山の画を幾つか残していますが、その多くで頭頂の角度を誇張したり、延びた裾までを描こうとしてませんし、スケール感が伴わず、何処かで見た事のある様な構図が多い気がします。
他の山を見て参考にしたり、想像力を働かせてそれらしい画には見えるのですが、何かが足りません。

どうやら、先人の残した画を見る事はあっても、本物の富士の姿を間近で観察する機会は無かったのではないか(?)と、推測出来そうです。

芦雪が住んでいた京都から、東海道をある程度東へ下って(現代では「上って」と表現)、富士山が見える場所まで行ったとしても、往復ではおそらく半月以上の日数が掛かってしまったでしょうから、修業時代の芦雪であれば、その時間を作る事は難しかったと考えられます。
また、それだけの時間を割いて旅をしたのであれば、当然その途中沿道の風景スケッチも多く残していた事と考えられますが、それらしい画が見られない事も不自然です。

(例えば、頑張って浜松辺りまで行っていたとして、条件さえ良ければ富士山が小さく見える事も期待出来る様ですが、裾の部分は他の山に遮られ、構図が限られる様です)
一度でも間近で見ていれば、その後の画が大きく変わっていたでしょうに、、、

見せてやりたかった!











# by Ru_p | 2017-10-28 13:27 | アート・コレクション | Comments(0)

『猫』 を躾ける人? (文晁)

人物は「(阿)羅漢」 (仏教修行での「到達者」を指す言葉)

猫は猫でも 猫科のトラ




伏虎羅漢図 谷文晁筆  06032

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この羅漢様は、伝説では、虎を神通力で手懐けていたそうです。
猫っぽい虎ですが、威嚇の表情にどことなく、リアルさ・鋭さが感じられます。

作者とされる江戸後期の絵師 (谷文晁:1763~1841)自身は、実際の虎を見た事がありませんが、中国に限らず、寛政期に欧州から日本に入って来た「ヨハン・ヨンストン(1603年-75年)の動物図譜」等多くの動物画の摸写を行っていました。


猫は、犬と違って躾けが難しい生き物ですので、「飼い犬が餌を盗めば飼い主の責任ですが、猫の場合にはその責任で飼い主が追求されない」と言う意味の判例があったと聞いた事があります。

羅漢様って すごい!











# by Ru_p | 2017-10-28 10:42 | アート・コレクション | Comments(0)

恋する・・・? (芦雪)

①左幅:虎図 長沢芦雪筆
 紙本淡彩色 17018 44.4×120.1
②右幅:龍図 長沢芦雪筆  
紙本淡彩色17019 44.6×120.3

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『恋するふたり』 (双幅図)


【まさか?】

実際には「龍虎図」なのですが、もしも そんな「題」が付いていたとしたら、
相思相愛の間柄、と言う見立てに合点してしまうのかも知れませんよね。

上の作品での落款署名の書体や筆致を見ますと、長沢芦雪の晩年にも近い寛政年間の中期頃の作品と思われます。
その頃の芦雪ですと、幅広い層での交友が有ったでしょうから、様々な場所で「龍虎図」を見る機会があり、知識も豊富に蓄えていたと考えられます。

この画は、当たり前の先入観で見た場合、力を誇示して威嚇し合う宿敵同士を、二頭の霊獣が象徴しているかの様に見える事でしょう。
しかし、もしもそんな全ての先入観を捨て去って見る事が出来るとすれば、仲むつまじい関係同士に見立てられない事もないのでは?


(芦雪の心に棲んでいた、猫の様に甘える虎と、優しく気の弱そうな龍とが、本紙紙面から滲み出て来てしまい・・?)


【そこで、疑問が 】

今までに芦雪の龍や虎を幾つか見て来て、不思議だと感じていた事があります。
表情があまりにも “恐ろしくない” 事です。

まるでペットの様に「ゆるめ」で可愛らしく描かれている作品が妙に多く目に付きます。
はみ出す様な構図による存在感や迫力は劣らないので、むしろ好まれる「ゆるさ」なのか、とも感じられます。
(他の絵師の作品でも、恐ろしくない龍虎図は、しばしば見掛けられます)

芦雪の表現力を以てすれば、更に恐ろしい表情で、もう一歩緊迫の度を高めて描く事も可能だったはずです。
龍や虎の実物など、だれも見た事は無かったはずですが、意図的にそうしたのであれば、その理由は・・


こんな事を感じたのは、私だけなのでしょうか?




【何か、見落としては?】

左幅①虎図では、顔と体の概略の形を描いた後で、ごく薄い赤を加えた墨で虎の柄の下塗りを行い、乾ききる前に中濃の墨を描き加えた様です。全体に赤茶色っぽい墨色の模様で、それが塗り残された白っぽい部分を引き立てている様にも見えます。
右幅②龍図では、龍の手や顔の概略の形を描いた後、一休みして乾燥を待ち、その後で藍を少し加えた墨で、水筆で雲をぼかしながら描いた様です。龍の腕には、虎図で使った薄い赤の墨も使って柄を描き加えた様です。(全体として青っぽい墨色と感じます)
それぞれの画を個別に眺めると、殆ど墨以外の彩色がされていないと感じる程度の薄い彩色です。

紙は、普通の唐紙(中国の黄色味の多目な竹の紙)が使われている様で、墨の滲み具合では良い味となっています。
(繊維が短かく強度が小さいので、傷みが多く、虫食い穴もあります。所々に過去に表具師が行ったと見られる修復跡があり、近くで見ると多少目立ちますが、少し離れて見れば気にならない程度です)

落款署名は意図的に、それぞれの画の外側の邪魔にならない場所を選び、添景も兼ねて画の雰囲気に合わせた書体(筆致)で、書かれています。
双幅ともに、ほぼ同じサイズで、同じ日に左右に並べた状態で、極短時間(1時間程度?)に描き終えられたものと思われます。

この龍図・虎図は「双幅図」と言って、二幅対の状態で鑑賞される事を前提に描かれた一組の画に違いありません。


【並べて壁に掛けると】

二つの「窓」の様に見えるそれぞれの画面で、はみ出す様に配された虎と龍とが、互いに縺れて渦を巻く様に干渉し合い、まるで「窓」の外には、嵐の様な別世界が存在しているのか、と錯覚しそうな気分にもなります。

この双幅龍虎図の作画意図が、小さな画面の効果的な使い方で、たとえ狭い部屋にいても、広い空間を感じさせる暗示効果を狙う構成、だったのでは無いのかと気付かされます。

陰陽の太極図(「二つ巴」に似た形)の様に見えそうな配置の時には特に、強い力の象徴である龍や虎の姿を借りて、見る者の直ぐ近くに広大な異空間が存在するかの様に感じさせられます。
はみ出た部分が大きく拡がって行く様に見せる演出効果を活かして、「禅画」(見る者が、自身の存在についても見直す為の効果?)としての意味をも持たせたかったのかも知れません。

狙いがそれならば、リアルで恐ろしい顔や姿に描くだけでは現せないとしても当然(むしろ邪魔)なのでしょうね。



【誰か、知っていた?】

「龍虎図」の本来の意味が、その辺にもあったのかも知れないと気付いた時点で、すぐにネット上での検索を試みましたが、そんな具体的で平易に説明された(合理的な)解説が見当たりません。見る者に何を訴え様とする画なのか、と言う最も重要な部分の解説が見付け難くて、淋しい事です。

元々が中国から伝えられた「龍虎図」なので、更に深い「禅」や「道教」の宇宙観との関わりが伴っていても不思議ではないのですが、かつてそんな解釈が有ったのだとしたら、その伝承はどんな理由で滞り、消えてしまったのでしょうね。




また、課題が一つ増えてしまいそう・・・













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# by Ru_p | 2017-10-14 00:08 | アート・コレクション | Comments(0)

憧れだった蕪村?(芦雪)

まだ駆け出しで修業中だった長沢芦雪(1754-1799/7/10)が、「平安人物志」(近世京都文化人の名や住所を集成した出版物)天明二年版の画家部門に、掲載されたのが29歳(満28歳頃)で、彼には初めての事でした。

「平安人物志」は、芦雪の存命中では、明和五年(1768)の第一版に始まり、二版目の安永四年(1775)での改訂を経て、その天明二年版(1782年7月)で三度目の出版でした。(その次は30年も後の文化十年版で、芦雪の没後14年目)

芦雪の師匠の円山応挙は、既に画家部門の筆頭に名を連ねていましたので、芦雪にとって自分の名が平安人物志に載った(絵師として、世間から認められた)事は、さぞや嬉しい出来事だったと思われます。

天明二年版の画家部門を見ると、筆頭の応挙に次いで、伊藤若冲・与謝蕪村 等の名がありました。
その頃の与謝蕪村(1716-1784/1/17)は、芦雪の住居から約1キロの近距離に住んでいましたが、亡くなる1年半位前(数え年67歳)で、重度の下痢症を患って衰弱していた様です。

当時の芦雪にとって蕪村は同業者ですが、自分より遙かに名前の売れた先輩でしたから、老い衰えたとはいえ、その存在には大きな関心を持ち、顔や姿も当然見知っていたと考えられます。

長沢芦雪筆 空を見上げる歌人の図 紙本 29×128.5  17007
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上の画や落款の署名は、芦雪が最晩年(蕪村が没した10年以上後の寛政後期)に使っていた書体(筆致)の様です。
とすればこの画は、芦雪が見た最晩年の蕪村の姿を、何らかの理由で、十数年後に回想して描いたものかと思われます。

この画の場面は、蕪村が空を飛ぶ鳥(カラス?)に、何らかの想い(哀愁?)を感じて眺めている姿、と芦雪の目には映ったのでしょう。

場合によっては、カラスに似た、(※)八哥鳥に見えたのかも知れません。

(当時日本の絵師達は、中国の宮廷絵師として1731年から約二年間長崎に滞在した沈南蘋の、花鳥図の技法に大きく影響を受けていて、八哥鳥にも特に強い関心を持ち、飼育する人も多くいたそうです)

※ 八哥鳥:ハッカチョウ/叭叭鳥(ハハチョウ);スズメ目ムクドリ科;日本では殆ど見られませんでしたが、大陸南部に多く生息していて、中国画の題材には古くから吉祥鳥として扱われて来ました。


参考:芦雪にとって、応挙の同門で何かと因縁深かった松村呉春(1752-1811)も、後に蕪村を回想して、没後18年目の命日の為に、肖像画を描き残しています。  
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呉春筆 蕪村画像 享和元年(1801)
(MIHO MUSEUM 監修の展示会画集より)


蕪村存命中最後の十年間、呉春は画と俳諧で蕪村の弟子でしたし、その最期も看取っていました。




下の画は、落款の署名と印象から、芦雪が晩年の蕪村を見かけたのと近い頃に描いたと思われる八哥鳥の図です。
この画には、沈南蘋(中国清時代の宮廷画家)の画を基にした摸写という意味の「倣南蘋筆意」の文字が記されています。

写真も印刷も普及していない江戸時代以前の日本では、必ずしも絵師にオリジナリティーが求められず、摸写であっても価値を評価される時代でした。(仏画の場合などは、当然全てが仏典からの引用や複写でしたしので、その様な文化的背景もあったからでしょうか)
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長沢芦雪筆 岩上の八哥鳥図 「倣陳南蘋筆意」 紙本 24.3×88.6 17012

天明年間の初め頃(又はその前)の若描きで、文字や描線に、よく言えば初々しさはありますが、どことなく稚拙で、まだ芦雪らしい自信や勢いが感じられません。

その頃の多くの日本の絵師達と同様に、芦雪も練習のために中国の画(として沈南蘋の八哥鳥)を写したのでしょうが、虎図と同様で実物を見る機会が殆どない為、想像に頼った解釈で描かざるを得ない面があったのかも知れません。

この八哥鳥図での、羽の白っぽい色の部分の表現は、墨をわざと塗り残した様な描写で、蕪村の晩年の「鳶・鴉図(重文)」の雪の部分の描写(塗り残しの技法)に多少似ている様にも見えます。また、鳥の表情は妙に『アニメチック』(で擬人化されたかの様)に感じられます。
場合によっては、若く未熟だった芦雪なりに、蕪村の作品から、何らかの影響を受けて描いていたのかも知れません。



芦雪には、実在の生き物を描いたと思われる作品でも(十分観察しているはずなのに)、あたかも人の様に感情を持つ(?)のかと感じられる画が多々あり、そこが魅力でもあります。

この芦雪や蕪村(と更に仙厓も)の描く生き物には、「カワイイ」と感じてしまう画が多く、個人的に大好きな絵師たちです。
(彼らの個性や人柄からなのかも知れませんが、生き物への優しさ・慈しみが感じられ、癒やされます)






























# by Ru_p | 2017-10-01 06:41 | アート・コレクション | Comments(0)

江戸でもダンス(の2)

①舞美人図  岩佐勝重筆 絹本肉筆 39×31.6 17015
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女性が鼓と踊りで、若い男性をもてなしている、江戸初期の花街の情景なのでしょう。
あどけなさの残る、若い男性の視線は、片袖を脱ぎつつ踊る、お気に入りの女性に釘付け・・


画の作者は、落款印「勝重」から、岩佐又兵衛(1578-1650)の嫡子の岩佐勝重(1613-1673)かと思われます。

この親子は、筆致が非常に似ている事や、無落款の作品が多い事など、謎が多かったので(時代が古く、資料が少ない:同じ工房で活動していたり、「御用絵師」と言う立場もあり)、同一人物の作と見る説もあったそうです。
(物理的な年代測定は可能でも、厳密な作者の特定は今でも無理です)


画は描線も衣装の柄も、活き活きとして繊細、その場の会話までが聞こえて来そうです。

岩佐勝重の生きた時代の作品ですと場所は、2代目吉野太夫をも輩した京都六条三筋町辺りの遊郭でしょうか、人々が大らかだった頃の風情が感じられます。






②俳画 与謝蕪村筆 紙本淡彩色 26×71  17003
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画賛には、蕪村の「四五人に 月落ちかかる おどりかな」の句。
(自画賛の俳画ですので、俳句と画は、リンクしているはず)

蕪村は、これと同じテーマの俳画作品を、他にも複数(仮名遣いや構図はそれぞれ異なる)残していますが、何れも気負いのない文字や画で、自然体の人柄が感じられます。(どれも画が、かわいい)




真夏の盆踊り。
何かに憑かれたかの様に踊り続け、最後に残った四~五人。
始めは上にあった月も、すっかり低く傾いてしまっている。
そんな情景が思い浮かびます。

この時代には、BGM(笛太鼓の演奏)も、夜通し付き合ってくれていたのでしょうか。







昔も今も、踊り( ≒ ダンス )には、踊る側はもちろん、見る側をも引き込む魅力(魔力?)がある様です。









# by Ru_p | 2017-09-26 00:06 | アート・コレクション | Comments(0)

大文字焼き?(芦雪)

大文字送り火の図 長沢芦雪筆(蘆雪写)     17011  紙本:48×111

年中行事で、盆送りの風景(「夏の風物詩」)の様です。
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画の右上部分には、山の中腹で、大の字形に配した薪(火床)に、松明で上方から順次点火している様子が描かれています。
(京都では歴史的背景もあり「大文字焼き」という呼び方は嫌われているそうです )

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盆送りは旧暦7月中旬、夕刻に行われていた行事なので、全体に暗く描かれていますが、現代の大文字送り(毎年8月16日20時に点火)よりは、少し早い時刻の様です。

盆の送り火での薪は、一般的には、すぐに火が点き、すぐに燃え尽きる麻がらが燃やされています。この画の場合でも、細く真っ直ぐな(麻がらの様に見える)薪が火床毎に積まれている様です。画だけでは厳密な材質の判別は出来ませんが、予め乾燥させておいた薪を、参加者達が分担して持ち寄り設置したのでしょう(現代の京都五山の送り火では、もう少し太い材の護摩木が使われているので、その分で燃焼の時間が延びそう )。

高い所の炎と煙は、強い風(南から?)に煽られたらしく、殆ど水平に棚引いて見えますので、火事が心配になる勢いなのですが、この後にはきっと参加者達によって、確実に残り火の始末が行われていたのでしょう。

描かれている人物は、何れも屈強そうな男ばかりで、数えてみると41人。髪型や衣服、それに表情から、近隣に住む顔見知りの仲間同士の様です(中には裸足で参加している人もいます)。
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【長沢蘆雪の、若い頃の画?】

更に一人づつを見比べると、体型・姿勢・顔つき・服装・持ち物など、執拗な観察に基づき、意図的に「描き分け」を試みた(極端なほど別々の個性を強調)とも感じ取れます。

登場人物の表現方法では、職業絵師(後年の蘆雪の場合にも)であれば、主要な人物の表情には特に重点を置き、そうでもない存在には味付けを省略する表現が多いのですが、この画の場合には、雲や樹木などと省略に使えそうな要素が多いのに、それ等を要領よく使おうとする逃げが見えません。ある意味では、敢えて「十人十色」又は「百人百様」への描き分け表現に挑戦した、かの様です(師匠の指導だったのか?)。

ここでの、人物を妥協せずに描き込みきろうとする姿勢には、まるで師(応挙)の作品で「七難七福図巻(1768年制作:重要文化財)」などにも見られる様な生真面目なまでの拘り(後年の蘆雪なら、もっと気楽そうな・・)が感じられます。

長沢蘆雪(1754~1799)の落款で、楷書での署名の例は、主に天明年間の頃(二十代半ばから三十代始め頃まで)に使われていたのですが、ここの署名には、その最も初期の作品として知られる「東山名所風俗図(1778年制作)」にも近い雰囲気(真摯なぎごちなさ)が感じられます。

また、この画の本紙に使われている紙ですが、きわめて薄くて繊維の短い紙(画宣紙?)で、小さく半端なサイズの紙が十数枚継ぎ合わされ、裏打ちで整えた状態にして使われている様です。それも、比較的不器用そうな継ぎ跡なので、場合によっては、絵師として世間に認められる前の蘆雪(二十代半ば頃?)が、自から準備を試みた、貧しい修業時代の画材だったのかも知れません。
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(用紙の継ぎ目部分が粗雑;明暗を調整して拡大)




修業時代の蘆雪が通っていた京都四条の師(応挙)の住まいは、大文字の送りが行われた京都東山の如意ヶ嶽にも近いので、その山で描いた下絵を基に、この画が描かれたのかも知れないと考えれば、つじつまは合いそうです。




ところで、この画(掛け軸)の軸先には、仏表具の時に使われる金物(金属製品)が付いていますので、仏画として表具に仕立てられた様です。
盆送りは、仏教関連の宗教行事(現在では、地元の保存会の方々等によって運営されている様ですが)でもあるので、仏画として扱われていたとしても、不自然とは言えないでしょう。
ただ、画(本紙)の周辺部を二分(約6ミリ)以上の幅で(裂が)覆い隠す様な、粗雑な表装が行われているので、長い間所有者にあまり関心(興味)を持たれて来なかった可能性はあります。
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なぜ仏表具の軸先に金物が使われる様になったのか、と言うことの合理的な説明は殆ど語られていない様ですが、牙や骨などの殺生(宗派に依っては、戒律で禁ずる)で得られる材料を避ける(表具師の拡大解釈?)ためだったのかもしれません。



実際にこの画を蘆雪が描いたという客観的な立証は、今更誰にも出来ないのですが、この様に真面目に写された画なので、少なくとも江戸中期の風俗を知る上での希少な資料(大文字送り関する歴史的資料は、残念なことに、多くは残ってないのだそうです)とは言えるでしょう。




一般的に、有名な絵描きの初期の作品には、「若描き」と呼ばれて、あまり高くは評価をされない傾向がありますが、長沢蘆雪の場合には、殆どの作品で制作時期の情報が残されていないことから、逆にその謎への関心が高まります。
(物理的年代測定はしていませんし、その予定もありませんが、個人的には、見飽きない好きな画です)











# by Ru_p | 2017-07-21 20:05 | アート・コレクション | Comments(0)

古今集の古筆(その2:素性法師)

伝 素性法師(三十六歌仙の一人)筆 16×23 17006

ちっぽけな紙片ですが、平安貴族文化の貴重な資料の様です。
以前、どなたか研究者の方が、朱でチェックを入れた形跡が見られます。
(紙料の劣化具合には、千年以上の歴史の風情も感じられる珍しい物です)
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勝手な想像による 文書の意味
  雲林院歌会での控え(私的メモ)
    記載日;寛平初年3月?日(西暦889年4月?;「寛平御時后宮哥合」以前の春で、京都の山桜が散る頃)
    記録者;素性法師(桓武天皇の曾孫/当時は雲林院に住んでいた

自己流での 読みと解釈
       赤文字:変体仮名部分を現代の仮名文字に変換
       青文字:濁点等を加え、一部漢字に直し、現代語風に変換

      
  雲林院にてさくらのちりけるをこそよめり
  雲林院にて 桜の散りけるをこそ詠めり
      
     素性法師
     素性(そせい)法師
      
    をイ 
 花ちらす風のやとりはたれかしる我にをしへよ行てうらみん
 花散らす 風の やとり(居所)は 誰か知る 我に教えよ 行て恨みむ
   (古今76)  
    さくらの花のちり侍りけるをみてよめる
    桜の花の散りはべりけるを見て詠める
      
      
     承均法師 貫之カヲヒ 紀文時カ子也
     承均(そうく)法師 貫之が甥 紀文時が子也
      
  桜ちる花のところは春なから雪そふりつつきえかてにする
  桜散る 花の処は春ながら 雪ぞ降りつつ 消えがてにする
   (古今75)  
    雲林院にてさくらの花のちるを見てよめり
    雲林院にて 桜の花の散るを見て詠めり
      
      
  いさ桜我もちりなん一さかりありなは人にうきめみえなん
  誘(いざ)桜 我も散りなむ 一盛り ありなば人に 憂き目見えなむ
   (古今77)  
    花モ一サカリ也花ノ盛リニ我モチリナン
    花も一盛り也 花の盛りに 我散りなむ
      
     世ニナカラヘハ
     世に 長らえば
      
    人ニウキ目見ヘナント云也
    人に憂き目見えなむ と言う也
      


後に古今集に載る有名な春の歌三首が、雲林院(かつては京都の桜の名所)の私的歌会にて初めて作られ披露された時の筆者(素性法師)自身による記録の様です。

素性法師自作の一首(頭に〇印)と、承均(そうく)法師が詠んだ二首とを記録した文書で、その内容から素性法師にとって、承均法師は、恐らくこの日が初対面で、紹介された内容をも同時に記録した物の様です。

その、承均法師の身の上に関連する記述の部分には、素性法師が親しくしていた紀貫之の甥で、父は紀文時であること等、今まで殆ど世の中に知られていない情報が記載されていますので、原本(真筆)であれば、歴史資料として重要な意味がありそうです。




ところで、三首目の「いざ桜・・・」の承均法師の歌ですが、もう一花咲かせてから自分の人生も散らせたいと言う意味もあるとすれば、出家した僧の作としては、何とも俗世間に未練を残している心情が見え、妙な若さを感じます。(読みの仮名を表音文字と見ると、幾つかの意味を曖昧に掛ける事が可能なので、そんな遊び心が求められ/この歌会では、他にどれほど参加者が居たのか不明ですが、筆者はその場で歌にコメントを述べていた様ですね)
この日が承均さんの、歌会初デビューだったのでしょうか?その新鮮さ故に老いた素性法師が気に留めて、この歌を選び残したのかも知れませんね。

それが、親友の甥へのエコヒイキだとしても、また狭い貴族社会だけの出来事なのだとしても、千年前の人も現代人も、心はそれほど違わない様で、なんだかチョット親近感が感じそられうです。




この頃の貴族が使った紙は、おそらく「唐紙(中国から輸入した紙)」でしょうが、こんな良い状態で残っているとは、紙と墨って、非常に優れた記録媒体なのですね。
















# by Ru_p | 2017-06-23 20:14 | アート・コレクション | Comments(0)

伝説の仙人 (芦雪の1)

陳楠 洪流濟行図 長沢芦雪筆  16006 56*130 紙本肉筆
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「陳楠」は、伝説上の『仙人』達(約500人)を集めて紹介した『有象列仙全伝(校次:世貞輯/1526~1590)』と言う中国の本(全九巻の八巻目)に図像と共に載っています。
その図像は上の画とよく似ているので、おそらく芦雪は、そんな資料を見る機会があったと言う事なのでしょう。

これと似た資料が他にも幾つか世に存在するのですが、長い間に様々に編集が繰り返されたらしく、微妙に記述が異なるので、何れのどの部分が大元の資料に近かったのか、今では判断が難しいところです。

その『有象列仙全伝』の原文から、陳楠に関する部分を
下に抜き出して(異字体は修正)みました。

陳楠字南木号翠虚。
傳羅人。
以盤櫳箍桶為生。
後得太乙刀圭金丹法於毘陵禅師。
得景霄大雷琅書於黎姥山神人。
能以符水捻土愈病。
時人呼之為沈泥九。
時披髪日行四五百里。
鶉衣百結塵垢満身。
善食犬肉終日爛酔。
嘗之蒼梧遇郡禱旱。
翠虚執鉄鞭下漳駆龍須曳雷雨交作過三山大義渡。
洪流舟不敢行。
翠虚浮笠而濟。
行欽管道中遇群盗拉殺之瘞三日盗散復甦遊長沙。
衝帥節。
執拘送邕州獄數夕回長沙矣中夜坐或倉水銀。
越宿成白金常自言(関?)世四十五。
然人傳有四世見之者。
以丹法授白玉蟾寧宗嘉定間。
於漳入水而解去當日有葛縣尉在潭州寧郷見之。
翠虚與尉父相能。
因寄書潮州達其父計之即水解日。
巳復與其父相見。



【これを勝手に解釈してみますと】

陳楠は、字を南木・号を翠虚、及び泥丸(原文中「泥九」ですが編纂読取りミス?)と呼ばれていた。
傳羅県(今の広東省恵州市;ホンコンの少し北の辺り)の人。
盤(さら)・檻(おり)・箍(たが)・桶(おけ)を作る事が生業だった。
異なる不思議な術を伝授される機会があり、それぞれ会得していた。
その能力で、泥を扱い病人を癒やした事で、泥丸(九?)とも呼ばれていた。
髪を振り乱し、時には日に百数十㎞(中国の一里は約400mらしいので)も走る事があった。
酷いボロ着と垢まみれに汚れた身なりでいた。
犬の肉をよく食べ、終日泥酔していた。
干ばつで人々が苦しんでいる時には池に入り、鉄ので龍を連れだし、雷雲を起こさせ雨を降らせて解決させた。
洪水となり、舟が進めなくても、陳楠は浮かせた笠に乗り渡る事ができた。
旅先で盗賊に襲われ、死んでしまっても、数日後には元気に甦ってみせた。
(以下省略)

つまりは、不老不死と言われた人の荒唐無稽なお話。

ここでの、
傳羅;この地名は紀元前214年に設置され、紀元後280年(太康元年)に博羅県と改称されています。
鉄鞭;製鉄は、前600年ころから始まり、前50年ころからは武器も鉄製となり、後漢(8~265)の時代には、鋼も量産されていたそうです。

以上の事から,
「陳楠」が実在したのならば、前1世紀~後3世紀頃の人物だった、と推測出来そうです。
(二千年近くも昔ですと、まともな資料が残ってなくて当然でしょうね)
超人の存在への期待と憧れから、伝承には尾ヒレが加わっている可能性が高い事でしょう。


これは、芦雪がいかにも好きそうな題材で、思い切りよい勢いのある描線で、陳楠の不気味なキャラクターが見事に描かれています。(円山応挙も似た画題の作品を残していましたね;「波上群仙図」;1786年製作;無量寺蔵)

当時、こんな大胆にデフォルメされた画って大衆にも好まれたのでしょうか?

まるで漫画の世界を見ているようで・・・♪






これぞ 絵 空 事




# by Ru_p | 2017-06-02 18:03 | アート・コレクション | Comments(0)


妄想猫の起末具連記


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