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タグ:長沢芦雪 ( 34 ) タグの人気記事

恋する・・・? (芦雪)

①左幅:虎図 長沢芦雪筆
 紙本淡彩色 17018 44.4×120.1
②右幅:龍図 長沢芦雪筆  
紙本淡彩色17019 44.6×120.3

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『恋するふたり』 (双幅図)


【まさか?】

実際には「龍虎図」なのですが、もしも そんな「題」が付いていたとしたら、
相思相愛の間柄、と言う見立てに合点してしまうのかも知れませんよね。

上の作品での落款署名の書体や筆致を見ますと、長沢芦雪の晩年にも近い寛政年間の中期頃の作品と思われます。
その頃の芦雪ですと、幅広い層での交友が有ったでしょうから、様々な場所で「龍虎図」を見る機会があり、知識も豊富に蓄えていたと考えられます。

この画は、当たり前の先入観で見た場合、力を誇示して威嚇し合う宿敵同士を、二頭の霊獣が象徴しているかの様に見える事でしょう。
しかし、もしもそんな全ての先入観を捨て去って見る事が出来るとすれば、仲むつまじい関係同士に見立てられない事もないのでは?


(芦雪の心に棲んでいた、猫の様に甘える虎と、優しく気の弱そうな龍とが、本紙紙面から滲み出て来てしまい・・?)


【そこで、疑問が 】

今までに芦雪の龍や虎を幾つか見て来て、不思議だと感じていた事があります。
表情があまりにも “恐ろしくない” 事です。

まるでペットの様に「ゆるめ」で可愛らしく描かれている作品が妙に多く目に付きます。
はみ出す様な構図による存在感や迫力は劣らないので、むしろ好まれる「ゆるさ」なのか、とも感じられます。
(他の絵師の作品でも、恐ろしくない龍虎図は、しばしば見掛けられます)

芦雪の表現力を以てすれば、更に恐ろしい表情で、もう一歩緊迫の度を高めて描く事も可能だったはずです。
龍や虎の実物など、だれも見た事は無かったはずですが、意図的にそうしたのであれば、その理由は・・


こんな事を感じたのは、私だけなのでしょうか?




【何か、見落としては?】

左幅①虎図では、顔と体の概略の形を描いた後で、ごく薄い赤を加えた墨で虎の柄の下塗りを行い、乾ききる前に中濃の墨を描き加えた様です。全体に赤茶色っぽい墨色の模様で、それが塗り残された白っぽい部分を引き立てている様にも見えます。
右幅②龍図では、龍の手や顔の概略の形を描いた後、一休みして乾燥を待ち、その後で藍を少し加えた墨で、水筆で雲をぼかしながら描いた様です。龍の腕には、虎図で使った薄い赤の墨も使って柄を描き加えた様です。(全体として青っぽい墨色と感じます)
それぞれの画を個別に眺めると、殆ど墨以外の彩色がされていないと感じる程度の薄い彩色です。

紙は、普通の唐紙(中国の黄色味の多目な竹の紙)が使われている様で、墨の滲み具合では良い味となっています。
(繊維が短かく強度が小さいので、傷みが多く、虫食い穴もあります。所々に過去に表具師が行ったと見られる修復跡があり、近くで見ると多少目立ちますが、少し離れて見れば気にならない程度です)

落款署名は意図的に、それぞれの画の外側の邪魔にならない場所を選び、添景も兼ねて画の雰囲気に合わせた書体(筆致)で、書かれています。
双幅ともに、ほぼ同じサイズで、同じ日に左右に並べた状態で、極短時間(1時間程度?)に描き終えられたものと思われます。

この龍図・虎図は「双幅図」と言って、二幅対の状態で鑑賞される事を前提に描かれた一組の画に違いありません。


【並べて壁に掛けると】

二つの「窓」の様に見えるそれぞれの画面で、はみ出す様に配された虎と龍とが、互いに縺れて渦を巻く様に干渉し合い、まるで「窓」の外には、嵐の様な別世界が存在しているのか、と錯覚しそうな気分にもなります。

この双幅龍虎図の作画意図が、小さな画面の効果的な使い方で、たとえ狭い部屋にいても、広い空間を感じさせる暗示効果を狙う構成、だったのでは無いのかと気付かされます。

陰陽の太極図(「二つ巴」に似た形)の様に見えそうな配置の時には特に、強い力の象徴である龍や虎の姿を借りて、見る者の直ぐ近くに広大な異空間が存在するかの様に感じさせられます。
はみ出た部分が大きく拡がって行く様に見せる演出効果を活かして、「禅画」(見る者が、自身の存在についても見直す為の効果?)としての意味をも持たせたかったのかも知れません。

狙いがそれならば、リアルで恐ろしい顔や姿に描くだけでは現せないとしても当然(むしろ邪魔)なのでしょうね。



【誰か、知っていた?】

「龍虎図」の本来の意味が、その辺にもあったのかも知れないと気付いた時点で、すぐにネット上での検索を試みましたが、そんな具体的で平易に説明された(合理的な)解説が見当たりません。見る者に何を訴え様とする画なのか、と言う最も重要な部分の解説が見付け難くて、淋しい事です。

元々が中国から伝えられた「龍虎図」なので、更に深い「禅」や「道教」の宇宙観との関わりが伴っていても不思議ではないのですが、かつてそんな解釈が有ったのだとしたら、その伝承はどんな理由で滞り、消えてしまったのでしょうね。




また、課題が一つ増えてしまいそう・・・













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by Ru_p | 2017-10-14 00:08 | アート・コレクション | Comments(0)

憧れだった蕪村?(芦雪)

まだ駆け出しで修業中だった長沢芦雪(1754-1799/7/10)が、「平安人物志」(近世京都文化人の名や住所を集成した出版物)天明二年版の画家部門に、掲載されたのが29歳(満28歳頃)で、彼には初めての事でした。

「平安人物志」は、芦雪の存命中では、明和五年(1768)の第一版に始まり、二版目の安永四年(1775)での改訂を経て、その天明二年版(1782年7月)で三度目の出版でした。(その次は30年も後の文化十年版で、芦雪の没後14年目)

芦雪の師匠の円山応挙は、既に画家部門の筆頭に名を連ねていましたので、芦雪にとって自分の名が平安人物志に載った(絵師として、世間から認められた)事は、さぞや嬉しい出来事だったと思われます。

天明二年版の画家部門を見ると、筆頭の応挙に次いで、伊藤若冲・与謝蕪村 等の名がありました。
その頃の与謝蕪村(1716-1784/1/17)は、芦雪の住居から約1キロの近距離に住んでいましたが、亡くなる1年半位前(数え年67歳)で、重度の下痢症を患って衰弱していた様です。

当時の芦雪にとって蕪村は同業者ですが、自分より遙かに名前の売れた先輩でしたから、老い衰えたとはいえ、その存在には大きな関心を持ち、顔や姿も当然見知っていたと考えられます。

長沢芦雪筆 空を見上げる歌人の図 17007 紙本 29×128.5
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上の画や落款の署名は、芦雪が最晩年(蕪村が没した10年以上後の寛政後期)に使っていた書体(筆致)の様です。
とすればこの画は、芦雪が見た最晩年の蕪村の姿を、何らかの理由で、十数年後に回想して描いたものかと思われます。

この画の場面は、蕪村が空を飛ぶ鳥(カラス?)に、何らかの想い(哀愁?)を感じて眺めている姿、と芦雪の目には映ったのでしょう。

場合によっては、カラスに似た、(※)八哥鳥に見えたのかも知れません。

(当時日本の絵師達は、中国の宮廷絵師として1731年から約二年間長崎に滞在した沈南蘋の、花鳥図の技法に大きく影響を受けていて、八哥鳥にも特に強い関心を持ち、飼育する人も多くいたそうです)

※ 八哥鳥:ハッカチョウ/叭叭鳥(ハハチョウ);スズメ目ムクドリ科;日本では殆ど見られませんでしたが、大陸南部に多く生息していて、中国画の題材には古くから吉祥鳥として扱われて来ました。


参考:芦雪にとって、応挙の同門で何かと因縁深かった松村呉春(1752-1811)も、後に蕪村を回想して、没後18年目の命日の為に、肖像画を描き残しています。  
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呉春筆 蕪村画像 享和元年(1801)
(MIHO MUSEUM 監修の展示会画集より)


蕪村存命中最後の十年間、呉春は画と俳諧で蕪村の弟子でしたし、その最期も看取っていました。




下の画は、落款の署名と印象から、芦雪が晩年の蕪村を見かけたのと近い頃に描いたと思われる八哥鳥の図です。
この画には、沈南蘋(中国清時代の宮廷画家)の画を基にした摸写という意味の「倣南蘋筆意」の文字が記されています。

写真も印刷も普及していない江戸時代以前の日本では、必ずしも絵師にオリジナリティーが求められず、摸写であっても価値を評価される時代でした。(仏画の場合などは、当然全てが仏典からの引用や複写でしたしので、その様な文化的背景もあったからでしょうか)
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長沢芦雪筆 岩上の八哥鳥図 「倣陳南蘋筆意」 17012 紙本 24.3×88.6

天明年間の初め頃(又はその前)の若描きで、文字や描線に、よく言えば初々しさはありますが、どことなく稚拙で、まだ芦雪らしい自信や勢いが感じられません。

その頃の多くの日本の絵師達と同様に、芦雪も練習のために中国の画(として沈南蘋の八哥鳥)を写したのでしょうが、虎図と同様で実物を見る機会が殆どない為、想像に頼った解釈で描かざるを得ない面があったのかも知れません。

この八哥鳥図での、羽の白っぽい色の部分の表現は、墨をわざと塗り残した様な描写で、蕪村の晩年の「鳶・鴉図(重文)」の雪の部分の描写(塗り残しの技法)に多少似ている様にも見えます。また、鳥の表情は妙に『アニメチック』(で擬人化されたかの様)に感じられます。
場合によっては、若く未熟だった芦雪なりに、蕪村の作品から、何らかの影響を受けて描いていたのかも知れません。



芦雪には、実在の生き物を描いたと思われる作品でも(十分観察しているはずなのに)、あたかも人の様に感情を持つ(?)のかと感じられる画が多々あり、そこが魅力でもあります。

この芦雪や蕪村(と更に仙厓も)の描く生き物には、「カワイイ」と感じてしまう画が多く、個人的に大好きな絵師たちです。
(彼らの個性や人柄からなのかも知れませんが、生き物への優しさ・慈しみが感じられ、癒やされます)






























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by Ru_p | 2017-10-01 06:41 | アート・コレクション | Comments(0)

大文字焼き?(蘆雪)

大文字送り火の図 長沢芦雪筆(蘆雪写)     17011  紙本:48×111

年中行事で、盆送りの風景(「夏の風物詩」)の様です。
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画の右上部分には、山の中腹で、大の字形に配した薪(火床)に、松明で上方から順次点火している様子が描かれています。
(京都では歴史的背景もあり「大文字焼き」とは呼ばれないそうです )

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盆送りは旧暦7月中旬、夕刻に行われていた行事なので、全体に暗く描かれていますが、現代の大文字送り(毎年8月16日20時に点火)よりは、少し早い時刻の様です。

盆の送り火での薪は、一般的には、すぐに火が点き、すぐに燃え尽きる麻がらが燃やされています。この画の場合でも、細く真っ直ぐな(麻がらの様に見える)薪が火床毎に積まれている様です。画だけでは厳密な材質の判別は出来ませんが、予め乾燥させておいた薪を、参加者達が分担して持ち寄り設置したのでしょう(現代の京都五山の送り火では、もう少し太い材の護摩木が使われているので、その分で燃焼の時間が延びそう )。

高い所の炎と煙は、強い風(南から?)に煽られたらしく、殆ど水平に棚引いて見えますので、火事が心配になる勢いなのですが、この後にはきっと参加者達によって、確実に残り火の始末が行われていたのでしょう。

描かれている人物は、何れも屈強そうな男ばかりで、数えてみると41人。髪型や衣服、それに表情から、近隣に住む顔見知りの仲間同士の様です(中には裸足で参加している人もいます)。
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【長沢蘆雪の、若い頃の画?】

更に一人づつを見比べると、体型・姿勢・顔つき・服装・持ち物など、執拗な観察に基づき、意図的に「描き分け」を試みた(極端なほど別々の個性を強調)とも感じ取れます。

登場人物の表現方法では、職業絵師(後年の蘆雪の場合にも)であれば、主要な人物の表情には特に重点を置き、そうでもない存在には味付けを省略する表現が多いのですが、この画の場合には、雲や樹木などと省略に使えそうな要素が多いのに、それ等を要領よく使おうとする逃げが見えません。ある意味では、敢えて「十人十色」又は「百人百様」への描き分け表現に挑戦した、かの様です(師匠の指導だったのか?)。

ここでの、人物を妥協せずに描き込みきろうとする姿勢には、まるで師(応挙)の作品で「七難七福図巻(1768年制作:重要文化財)」などにも見られる様な生真面目なまでの拘り(後年の蘆雪なら、もっと気楽そうな・・)が感じられます。

長沢蘆雪(1754~1799)の落款で、楷書での署名の例は、主に天明年間の頃(二十代半ばから三十代始め頃まで)に使われていたのですが、ここの署名には、その最も初期の作品として知られる「東山名所風俗図(1778年制作)」にも近い雰囲気(真摯なぎごちなさ)が感じられます。

また、この画の本紙に使われている紙ですが、きわめて薄くて繊維の短い紙(画宣紙?)で、小さく半端なサイズの紙が十数枚継ぎ合わされ、裏打ちで整えた状態にして使われている様です。それも、比較的不器用そうな継ぎ跡なので、場合によっては、絵師として世間に認められる前の蘆雪(二十代半ば頃?)が、自から準備を試みた、貧しい修業時代の画材だったのかも知れません。
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(用紙の継ぎ目部分が粗雑;明暗を調整して拡大)




修業時代の蘆雪が通っていた京都四条の師(応挙)の住まいは、大文字の送りが行われた京都東山の如意ヶ嶽にも近いので、その山で描いた下絵を基に、この画が描かれたのかも知れないと考えれば、つじつまは合いそうです。




ところで、この画(掛け軸)の軸先には、仏表具の時に使われる金物(金属製品)が付いていますので、仏画として表具に仕立てられた様です。
盆送りは、仏教関連の宗教行事(現在では、地元の保存会の方々等によって運営されている様ですが)でもあるので、仏画として扱われていたとしても、不自然とは言えないでしょう。
ただ、画(本紙)の周辺部を二分(約6ミリ)以上の幅で(裂が)覆い隠す様な、粗雑な表装が行われているので、長い間所有者にあまり関心(興味)を持たれて来なかった可能性はあります。
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なぜ仏表具の軸先に金物が使われる様になったのか、と言うことの合理的な説明は殆ど語られていない様ですが、牙や骨などの殺生(宗派に依っては、戒律で禁ずる)で得られる材料を避ける(表具師の拡大解釈?)ためだったのかもしれません。



実際にこの画を蘆雪が描いたという客観的な立証は、今更誰にも出来ないのですが、この様に真面目に写された画なので、少なくとも江戸中期の風俗を知る上での希少な資料(大文字送り関する歴史的資料は、残念なことに、多くは残ってないのだそうです)とは言えるでしょう。




一般的に、有名な絵描きの初期の作品には、「若描き」と呼ばれて、あまり高くは評価をされない傾向がありますが、長沢蘆雪の場合には、殆どの作品で制作時期の情報が残されていないことから、逆にその謎への関心が高まります。
(物理的年代測定はしていませんし、その予定もありませんが、個人的には・・・)











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by Ru_p | 2017-07-21 20:05 | アート・コレクション | Comments(0)

伝説の仙人 (芦雪の1)

陳楠 洪流濟行図 長沢芦雪筆  16006 56*130 紙本肉筆
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「陳楠」は、伝説上の『仙人』達(約500人)を集めて紹介した『有象列仙全伝(校次:世貞輯/1526~1590)』と言う中国の本(全九巻の八巻目)に図像と共に載っています。
その図像は上の画とよく似ているので、おそらく芦雪は、そんな資料を見る機会があったと言う事なのでしょう。

これと似た資料が他にも幾つか世に存在するのですが、長い間に様々に編集が繰り返されたらしく、微妙に記述が異なるので、何れのどの部分が大元の資料に近かったのか、今では判断が難しいところです。

その『有象列仙全伝』の原文から、陳楠に関する部分を
下に抜き出して(異字体は修正)みました。

陳楠字南木号翠虚。
傳羅人。
以盤櫳箍桶為生。
後得太乙刀圭金丹法於毘陵禅師。
得景霄大雷琅書於黎姥山神人。
能以符水捻土愈病。
時人呼之為沈泥九。
時披髪日行四五百里。
鶉衣百結塵垢満身。
善食犬肉終日爛酔。
嘗之蒼梧遇郡禱旱。
翠虚執鉄鞭下漳駆龍須曳雷雨交作過三山大義渡。
洪流舟不敢行。
翠虚浮笠而濟。
行欽管道中遇群盗拉殺之瘞三日盗散復甦遊長沙。
衝帥節。
執拘送邕州獄數夕回長沙矣中夜坐或倉水銀。
越宿成白金常自言(関?)世四十五。
然人傳有四世見之者。
以丹法授白玉蟾寧宗嘉定間。
於漳入水而解去當日有葛縣尉在潭州寧郷見之。
翠虚與尉父相能。
因寄書潮州達其父計之即水解日。
巳復與其父相見。



【これを勝手に解釈してみますと】

陳楠は、字を南木・号を翠虚、及び泥丸(原文中「泥九」ですが編纂読取りミス?)と呼ばれていた。
傳羅県(今の広東省恵州市;ホンコンの少し北の辺り)の人。
盤(さら)・檻(おり)・箍(たが)・桶(おけ)を作る事が生業だった。
異なる不思議な術を伝授される機会があり、それぞれ会得していた。
その能力で、泥を扱い病人を癒やした事で、泥丸(九?)とも呼ばれていた。
髪を振り乱し、時には日に百数十㎞(中国の一里は約400mらしいので)も走る事があった。
酷いボロ着と垢まみれに汚れた身なりでいた。
犬の肉をよく食べ、終日泥酔していた。
干ばつで人々が苦しんでいる時には池に入り、鉄ので龍を連れだし、雷雲を起こさせ雨を降らせて解決させた。
洪水となり、舟が進めなくても、陳楠は浮かせた笠に乗り渡る事ができた。
旅先で盗賊に襲われ、死んでしまっても、数日後には元気に甦ってみせた。
(以下省略)

つまりは、不老不死と言われた人の荒唐無稽なお話。

ここでの、
傳羅;この地名は紀元前214年に設置され、紀元後280年(太康元年)に博羅県と改称されています。
鉄鞭;製鉄は、前600年ころから始まり、前50年ころからは武器も鉄製となり、後漢(8~265)の時代には、鋼も量産されていたそうです。

以上の事から,
「陳楠」が実在したのならば、前1世紀~後3世紀頃の人物だった、と推測出来そうです。
(二千年近くも昔ですと、まともな資料が残ってなくて当然でしょうね)
超人の存在への期待と憧れから、伝承には尾ヒレが加わっている可能性が高い事でしょう。


これは、芦雪がいかにも好きそうな題材で、思い切りよい勢いのある描線で、陳楠の不気味なキャラクターが見事に描かれています。(円山応挙も似た画題の作品を残していましたね;「波上群仙図」;1786年製作;無量寺蔵)

当時、こんな大胆にデフォルメされた画って大衆にも好まれたのでしょうか?

まるで漫画の世界を見ているようで・・・♪






これぞ 絵 空 事




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by Ru_p | 2017-06-02 18:03 | アート・コレクション | Comments(0)

月にひとり (芦雪)

 長沢芦雪筆 月下に烏図 17002紙本 305*108 
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円い月の手前に老木とカラスのシルエットが、墨の濃淡だけで簡潔に(迷い無く)描かれています。

カラスまでの距離は約40メートル?(標準的なカラスの体長と月の直径角との関係からの逆算にて想定)。この位の距離だと恐らく、月からの逆光のために細部まではよく見えなかった事でしょう。
(月夜って、月面が4パーセント位の反射率で太陽光を反射するらしく、けっこう明るい)

細かく再現する必要も無い叙情的な景色、観る者の想像力で様々な世界に見える画だと思います。


以前も投稿で触れましたが、カラスは生涯完全な一夫一婦、なのだそうです。
独り、手の届かない月を観入るこのカラスの後ろ姿から、失ったもう一羽の事を淋しく想い浮かべて沈んでいる、と芦雪には見えたのかも知れません。

動物や子供が大好きだった長沢芦雪は、一男二女の子供たちを四十近くなってから授かっていたのに、立て続けに病で失ってしまいました。(この頃は満五歳まで育たない子供が大半だった様です;徳川将軍家などの系図記録をも参考とした場合)


芦雪にとって、このカラスの姿が 彼自身と重なって見えたのかも知れない。
と思えて来ませんか?


(あくまでも自遊な想像で・・・ )












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by Ru_p | 2017-04-16 19:38 | アート・コレクション | Comments(0)

鬼の姿 (芦雪)

長沢芦雪筆 餅を食べる鬼   紙本 27.5×63 16016
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鬼は伝説上(架空)の存在なので、当然写生は出来ないでしょうが、どこかの画で見た記憶があれば似た画に描けるのかも知れません。既に平安から室町時代の鬼は、「鬼門」と呼ばれる北東(丑寅:うしとら)の方向の呼び名に由来して、角・牙・褌等を牛と虎の特徴を組合せた姿とされていたので、今日広く定着した鬼のイメージとも殆ど違ってなかった様です。

この餅を食べる鬼の図は、琉球の古い伝説を画題にしたと思われます。
琉球の舜天王の時代(12~13世紀頃?)
出来事として語り継がれて来た話で、18世紀(1745年)に編纂された沖縄の歴史資料 球 陽 の中でも、年寄りからの伝承として記述されています。
本土では、馴染みの薄い沖縄の昔話なのですが、琉球では、古くから日本(朝廷その他)との人的交流が盛んに行われていたので、その話が当時京都に住んでいた長沢芦雪(1754~1799)の耳にも届き、画題として扱われる事になったのかと思われます。(江戸時代には「琉球ブーム」もあり・・)

この鬼が食べようとしている大きな餅は、沖縄では鬼餅(ムーチー)と呼ばれ、邪気(鬼災)を払う縁起物として食される習慣が既に広まっていたらしく、おそらく芦雪は、需要の多い「縁起物」としてこの画を描いたのではないかと思われます。
(芦雪は、何故か他にも珍しい昔話を題材として多くの画を描き残していますが、今では、それらを見て想像を膨らませる以外に、真の作画意図を知る術は無さそうで・・・)

その歴史資料の 球 陽 には、親を亡くした兄妹の兄の方が人を殺し、その肉を食べる様になり、「鬼」として人々から恐れられてしまった事で、肉親としてそれを憂慮した妹が、自ら兄を退治する為に、兄の好物だった餅に鉄(「・・餅内装丸・・」)を入れて食べさせ、騙して崖から落として死なせると言う話(多少不自然な展開の悲劇)が漢文で記されています。
(その話は、後世沖縄の各家庭で、縁起物の「鬼餅」を旧暦12月8日に食べる習慣として広まった事の根拠の様でもあります)

ここで個人的には疑問が生じました。

餅の内に入れた「鉄(丸)」程度で、鬼を退治が出来たのでしょうか?
貧しい妹が、そんな不確実な作戦の為に稀少な「鉄」を使うのは不自然では?

何世代も伝承が繰り返されて来たのでしょうから、基の話と内容が変わってしまっている可能性が大きいでしょうし、編纂当時の琉球では平仮名(表音文字)は普及していましたが、漢字は未だ未成熟だったようですから、記録内容に怪しい部分があったとしても不思議ではありません。(文字の無かった琉球で漢字が通用し始めてから、あまり長くは経ってなかったので)

そこで、沖縄なら簡単に入手可能な毒性植物の蘇鉄(ソテツ)の存在が思い当たり、上の「餅内装鉄丸」が「餅内蘇鉄丸(実?)」の伝承ミス(読みも似ている為)だった可能性を想定してみました。

蘇鉄(ソテツ)は、18世紀以降の琉球では、毒を抜く加工方法が普及し、飢饉時の非常食として、保存しておいた種子などを食べる事もあったのですが、この鬼の時代(12〜13世紀頃?)にはまだ、食べれば死ぬ事がある 強い毒 (サイカシン)の植物だった(今でも牛が誤食して死ぬ例が多く、時には角が抜け落ちた例も有るそう)と思われます。
また、秋から冬にかけて朱色の実(種子)を成らせますので、この伝説の鬼の死んだとされる12月8日にも近く、つじつまが合いそうです。

更に、琉球にとって日本よりも繋がりが深かった中国では、蘇鉄(ソテツ)が「鉄樹」という名前で呼ばれていたそうですので、この話で単に「鉄」と混同されたとしても、無理も無かった事でしょう。


そこで餅の中身ですが、 「装鉄」の文字を「蘇鉄」に置き替えれば、
説得力の有る鬼退治ストーリーが 成立、   メデタシ


今まで誰にも指摘されていなかったとは、とても不思議。
(食べずとも、鉄なら重さで鬼に気付かれてしまうから)







もしこの鬼が昔話の通りなら、元の姿は人間で、それが醜く変わり果てていた事になります。
慢性的な不況下で食糧に困窮する最下層の人間が、生きるために人間を殺してその肉を食べてしまう様な事は、他でもきっと起こっていた事ではないかと思います。
ただ、おそらく芦雪ならば、そんな地獄絵図(※)や生々し過ぎる鬼人は、描きたくはないと思ったことでしょう。(芦雪の描く生き物達には、多くの場合に、どことなく可愛らしい雰囲気が感じられます)

この鬼、筋肉モリモリなのに、やんちゃ坊主の様なお茶目顔で、
立て膝もカワイイ

・・・・・・・・・おにーちゃん?!








描かれた人物は、往々にして描き手に似てしまうとも言われますが、
その頃の芦雪って、こんな雰囲気?  (まるで、謾画・・・ )





e0259194_12532629.jpg(※)この画の印は芦雪の寛政以降の作品に使われていた物の様ですが、摩耗が少な目なので、30代後半頃に押されたのでしょうか。(朱文蒲鉾形連印 A)

その頃の芦雪ですと、父親や幼い子供達を相次いで亡くし、暗く悲しい時期だったのかも知れませんが・・・・。








 

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by Ru_p | 2016-06-16 21:02 | アート・コレクション | Comments(1)

オウム も見てた芦雪

長沢芦雪筆 鸚鵡図 (紙本彩色)  15015  44.5x127
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一瞬、何が描かれているのか(?)と戸惑いそな構図ですが、じきに、とぼけた顔で、目の可愛いオウムが正面を向いて茅葺き屋根の上に留まっている様子の画だと分かります。(当時としては、珍しい南方から輸入された鳥)
屋根は上から見下ろす様な形なのですが、オウムと月は、下から見上げる様なので、幾分奇妙な位置関係に感じられます。
 
芦雪の描いた生き物の作品には、特徴の有る方向からだけでなく、あえて描き難い(特徴を捉え難い)方向から描いた画がしばしば見られます。
(この嘴の描き方、なんとなく見覚えもあり・・・けっこう好きです)
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    (目力!)   


ところで、芦雪は、ある事故が原因で片目の視力を失っていたとも言われています。
その事故とは、淀藩に仕えていた芦雪が、藩主稲葉公に独楽の芸を披露した際、放り上げた独楽を受け損ねて、片目に刺さってしまった、と言う事態だったそうです。

いつ頃の事なのか?どちら側の目だったのか?視力は全く失われたのか?などの詳しい事は判らないのですが、もしも、そんな事故が実際に起こったのならば、画の腕前でなく独楽の芸の披露だった訳ですので、若い頃の出来事なのだろうと思われます。(芦雪は29歳で既に「平安人物誌」に、画家として名が載っていた知名人)
かと言って、もっと若い十代から片目では、応挙門への入門も修行も出来なかったでしょうから、恐らくは二十代の終わり(天明初期)頃だったのではないかと思われます。

この事故が原因で、ある時期から両眼視が出来なくなったと仮定するならば、当然それ以後の画の作風に何らかの影響があったと考えられます。
(例えば、芦雪の「美人画」では、天明の始め頃とそれの後とでは作風が明らかに変わったとの評価があります)

片目で物を見た場合、側面の情報を気にせずに済む(空間全体を把握して、より良い視点のアングルを求めたいという無意識の衝動が抑えられる)のではないか(?)と考えられます。また、視野が狭くなる事に伴い、対象物が視界からはみ出る様な多少不自然な距離感をも容認出来てしまう可能性が考えられます。(それってもしや、あの奇抜な構図が生まれた理由に・・・?)

残った片方の目が、右脳が主導的に支配する左目だったのかどうかも判りませんが、奇抜な構図や奔放な筆遣いが特徴として現れた原因が、この失明事件と関連していたのか(?)と意識して、作品群を見直してみることで、納得も期待出来るし、新しい発見も有るのではないかと思います。

上の画は、落款の書体(草書に変える前の楷書の時期の)と、印章(「朱文氷形印」で外周に年代判別の指標となる欠けが見られないこと)から、寛政3年以前の作品と思われますが、

この頃には、もう既に・・・・











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by Ru_p | 2015-09-02 20:47 | アート・コレクション | Comments(0)

三羽ガラス (芦雪)

柳に烏の図 「平安芦雪 写」 (長沢芦雪) 15007 44.7x121.5 紙本
e0259194_0113696.jpg


落款(印章が珍しい)の筆跡に幾らか乱れは感じられますが、いかにも芦雪(晩年近い)の描きそうな画に見えます。(真筆だとしても、もう誰も立証はできませんが、逆にその否定も難しいでしょう)
見ていて飽きず、何故か癒やされる好きな画です。


枝垂れ柳に三羽の烏(ハシボソガラス?)が留まっています。
一般に『三羽ガラス』は、特定の組織内で技量の優れたトップ3を指します。

この画の烏が人の「見立て」だとすれば、芦雪に関連する場合のそんな3人は、円山応挙門下の「応挙十哲」の内の誰かと言うことになるのかも知れませんね。
この画が描かれたと思われる当時の「応挙十哲」筆頭といえば、「長沢蘆雪・駒井源琦・山跡鶴嶺」(この内の山跡鶴嶺と応挙は西暦1795年には亡くなっています)だった様です。
その辺に関連して何らかの「もめ事」(権力争い?)が有ったのだとしても不思議な事ではありません。

そんな見立てで描かれた可能性を踏まえて見直すと(同門同士の画業の優劣は別として)、

      芦雪自身は、おそらく手前で別の方角を向いた・・・(?)












































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by Ru_p | 2015-06-12 12:51 | アート・コレクション | Comments(2)

梅に・・・・ (芦雪)

白梅小禽図 長澤芦雪筆    09040
 
e0259194_0292656.jpg
芦雪は、勢いよく伸びた小枝や蔓を豪快な筆遣いで描き、小動物を描き添える作品を多く残しています。

小禽(小鳥)は、ウグイスではなく、ジョウビタキのオスを描いたものの様に思われます。ジョウビタキは、スズメ目・ツグミ科に分類され、日本では冬から梅の頃に見られる渡り鳥なのだそうです。

種や雌雄の識別が出来るほどよく観察されているのは、さすが 。




小鳥が注視する先に自分の落款とは寝・・
















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by Ru_p | 2015-03-08 12:21 | アート・コレクション | Comments(0)

芦雪の写生画

この画の題材にされた「和しのぶ」 は、秋に紅葉し、冬に枯れ落ち、春には芽を吹く多年生で、着生のシダ植物です。
コケ玉やヘゴ等の塊に根を張らせ、屋敷の軒下に吊して風流に観賞することが、江戸時代のお屋敷で流行っていたようです。

『吊しのぶと雀の図』 長澤芦雪 筆 14016 23.5x126  紙本墨画淡彩
e0259194_2110147.jpg

画のタイトルとしては『吊しのぶと雀の図』と呼ばれるべきでしょうが、しのぶの根は大胆に省略された勢いのある筆遣いで描かれています。更にこの画を見て視線が自然に向かうのは、汚れと見まがいそうな細かな蜘蛛だと思います。拡大してみると、風になびく糸の先の蜘蛛の精緻な筆遣いと、肉眼の限界とも思える観察眼に気付き驚かされます。
(足の線の太さは毛筆の限界でしょう)
e0259194_18584698.jpg

ユーモアとサービス精神に溢れた芦雪は、見る人が驚嘆するであろう細密部分を、さりげなさそうに描くことで、内心密かに誇らしくも悦に入っていた様な気がしてなりません。

それにしても、よくぞここまで描けたもので・・・








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by Ru_p | 2015-01-17 07:56 | アート・コレクション | Comments(0)


妄想猫の起末具連記


by Ru_p

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