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杭州寒蘭の遅咲

約2ヶ月遅れで 傾頭開始
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ツボミは上を向いて伸び始めますが、開花の二週間ほど前になると、横を向くように頭を倒します。

30年くらい前に この仲間の杭州寒蘭が日本に入って来た頃には、開花は11月初旬から12月下旬まで位でした。「正月に咲いていてくれれば嬉しいのだけれど・・・」と同好者と話した覚えがあります。
ところが、最近は平均でも約1~2カ月の遅れが出ています。

最近日本に入ったの杭州寒蘭の産地が20~30年前とは違っていることは想像できますが、昔の杭州寒蘭は、どうなってしまったのでしょうか?
と言う疑問が最近よく聞かれるようになりました。実際のところ、殆どが枯れて消えてしまった?!(のではないか、と言うのが正解なのかも知れません)

古い昔のタイプの杭州寒蘭は、非常にデリケートで殖えにくい性質でしたから・・・
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by Ru_p | 2013-01-25 23:59 | 東洋蘭 | Comments(0)

江戸でも ダンス

踊る男女の図①    10039
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江戸初・中期の風俗の肉筆浮世絵の軸です。
若い男女(十代半ば?に見える)二人が、テンポの良さそうな曲に合わせて踊っている様子でしょうか。
顔が見えているのは女性の方だけですが、薄っすら紅潮した様な顔と陶酔した様な表情から、曲に乗っている雰囲気が伝わって来ます。
二人とも大胆で洒落た柄の衣服を着ていて、特に男性は変わった組み紐の帯を締るなど、当時でも流行の先端のファッションだったのでわないかと思わせます。髪型や衣服には江戸時代初期(慶長?寛永?)の雰囲気も感じられますし、女性は下唇を濃くは染める化粧法(=笹色紅;が大流行したのが文化・文政頃)ではないので、少なくとも江戸中期よりも前の風俗の様に思われます。(画がその時期に描かれたという根拠ではありませんが)

なんだか、若者たちの行動や心理は遠く時代を越えても、あまり変わっていないのかも知れない、と思えてきます。

この画に表わされた時代の他の浮世絵を見ますと、まだ版画ではなく肉筆で、殆ど無落款ばかりだった様です。
どんな絵師がどんな気持ちで描いたものか、どんな世の中だったのか、見ていると想像が膨らみます。


踊る男女の図②    13013
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①②共に着物が単衣では無く、暑い夏の盆踊りでも無さそうな・・・







【参考】 雰囲気が類似する、鈴木其一の有名な「群舞図」
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by Ru_p | 2013-01-23 07:50 | アート・コレクション | Comments(0)

魚籃観音?

見立て魚籃観音図(肉筆浮世絵:無款)   07030
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魚籃観音は多くの絵師に取り上げられて来た画の題材なのですが、ほとんどは「仏画」として描かれているものです。

この画は、腿が一部肌けているところや、鯉の困惑ぎみの表情などから、仏画としてではなく、むしろ、比較的品のよい「春画」にも近い「見立て絵」(パロディー画)として描かれたのではないかと思われます。

魚籃観音(ぎょらんかんのん)は、三十三観音(法華経によると、観音さまが人々を救済する為に三十三の姿に変身してこの世に現れ・・)の一つで、中国唐の時代の魚売りの美女が、後に観音として信仰されるようになった話(内容は省略します)に由来するのだそうです。
魚を篭に入れて持つ姿又は魚の上に乗る姿として描かれたり、それを造像されたりして、信仰の対象とされていたようで、この観音に念ずれば 「羅刹・毒龍・悪鬼の害を除くことを得る」 とされていたそうですが、羅刹・毒龍・悪鬼が何れも空想上の存在とされている現代では、このご利益祈願はどうなのでしょう?
(江戸名所絵図の江戸観音札所第25番目に当たり、魚籃観音を本尊とする東京の魚籃寺は、大漁・海上安全・商売繁盛・旅行安全・交通安全も祈願され・・・と言われている様です)





上の画の作者は不明なのですが、比較的似た雰囲気の画(主に版画)を多く残している浮世絵師で、有名な鳥文斎栄之一門筆頭の鳥高斎栄昌の木版画画像を参考のために下に貼ります。(この絵師は殆ど肉筆の美人画を残していないのですが、ひょっとすると同一なのでは?・・・近い雰囲気を感じます)
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by Ru_p | 2013-01-20 12:00 | アート・コレクション | Comments(0)

不動明王と滝 (室生寺)

不動明王立像図  10011    34.1×84.4 紙本肉筆

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長い間『香』の煙で燻され続けて来たらしく、全体に黒っぽく不鮮明になってしまっています。
(香の煙ならば水で丁寧に洗えば、成分が溶け出るので、もう少し鮮明になると期待は出来ますが・・)



取りあえずパソコンで画像調整する事で、下の様に細部まで見える様にはなりました。



















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(青不動)
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(とても古い物らしく、損傷が酷いのですが、表具を含めて、なるべくそのままの状態が残る様に保存すべきかとも思われます)

この画像を見て先ず気付いたのは、不動の右手側後方に滝があり、不動が立つ岩(磐石)の周りにも水が満ちている様子に描かれていることです。
不動明王は滝や水と縁がありそうな印象があるのですが、こうして一緒の画に描かれている例は必ずしも そう多くはないようです。

日本では古くから、滝の近くに「水神」として不動明王を祀る習慣がありましたので、この事と深い関係が有るのではないかと考えられます。

サンズイに「龍(竜)」の字を書いて「瀧(滝)」と言う字になる事からも、水の豊富な滝に竜の化身を重ねる見方(信仰)が起こり、滝を水源の守り神(水神)として崇める様になって行ったのではないかと考えられます。そして恐らくは、尊いその龍すらも不動明王の宝剣に「倶利伽羅竜」として巻き付いていたり、光背の火炎の中に棲む迦楼羅(鳥人神)が竜を捕食すると言われることで、更に強大な力を持つであろう不動明王(「大日如来の化身」と言われる)が、水神の象徴として、祀られる様になってきたのではないかと考えられます。
(全国的にも滝の名前には、「不動」の字の付くものが際だって多くあります)

日本の農業(米作り)にとって大切な水(水源)は日照りで涸れたりすれば一大事でしたので、「神頼み」は当然行われ続けて来た事でしょう。


この画(軸)の裏面には「不動明王 室生寺什物」との表記が見られます。
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室生寺のある地域は、近くに多雨で有名な大台ケ原もあることから特に雨が多かった様です。
そして、室生寺周辺には沢山の滝があります。


室生寺の歴史は非常に古く、その前身は奈良時代(6世紀頃?;伝承では680年~とも)から在り、興福寺の僧が草創に関わった事で、興福寺にも所属していた時期があったそうですが、江戸初期には真言宗の寺として独立していたそうです。

e0259194_1141307.jpg大和の東にある事で東方向の守護神は「青龍」という思想と、雨が多い地域ということが結びついて、古くから「室生山には龍神が住む」と考えられて、龍神信仰が盛行だったそうです。
(室生寺の更に東方約0.5kmには、龍神が棲むと言われる洞穴「吉祥龍穴」のある「龍穴神社」があり、古くから雨乞いが行われた聖地とされています;その昔の神仏混淆時代、室生寺とこの神社とは一体だったのでしょう;室生寺は、7世紀には「龍王寺」という称号が勅で与えられていたそうで、雨乞いの行事でも寺の名を馳せていたのだそうです)

山深い場所にあった為に、幾多の戦乱による焼失や破壊を奇跡的にも免れる事が出来た様で、室生寺が保有する尊像や、貴重な文化財の数は群を抜いています。
ただ、それ等ですら明治初期の廃仏毀釈運動で、多数の文化財を散逸(しばしば、散逸した文化財の一部が再発見され話題になっています)
してしまった残り物なのだそうです。


勝手な空想をしますと、この不動の図は雨乞いの儀式の法具として活躍して来た貴重な証拠ともなり得る尊像なのかも知れません。(不動明王は、雨乞い儀式には最も相応しい信仰対象でしょうから)

神社と寺とが分けられてしまった事が流失の原因なのかも知れませんが、恐らく無関心な什物管理者にとって、こんな薄汚れた軸などは ゴミ同然にしか見えなかった事でしょうし・・





ここで、一般的な不動明王の性格・特徴で9世紀末に天台宗の僧 『安然』が唱えた「不動十九観の儀軌」という定義を見ますと、下記の内様となっているそうです。

①大日如来の化身
②真言中に、ア・ロ・カン・マンの4字がある
常に火生三昧(かしょうざんまい)に住んでいる
肥満した童子の姿で、卑しい
頭頂に七沙髻があり、蓮華をのせている
左肩に一弁髪を垂らす
額に水波(すいは)のようなしわがある
左の目を閉じ右の目を開いている
右上の唇は下の歯で噛み、左は下唇の外に歯が出ている
口は硬く閉じている
右手に三鈷剣を持っている
左手に羂索を持っている
⑬行者の残食を食べる
大磐石の上に安座している
色が醜く青黒
奮迅して憤怒している
光背に迦楼羅炎(かるらえん)がある
倶力迦羅竜が剣にまとわりついている
両脇に2童子が侍している


この「不動十九観の儀軌」と、上の画との関連(姿形のみで)を見比べてみますと、

(符合する要素)
③;後背状に火焔が有ります。
⑥;顔の左には束ねられた弁髪が、肩まで垂れています。
⑨;歯(牙)は、左右非対称(上下向き)です。
⑩;口は、閉じた様に見えます(牙近くの唇部分以外)。
⑪;右手には「三鈷剣」を持っています。
⑫;左手に羂索を持っている
⑮;肌の色は、青黒(褐色)く見えます。
⑰;不動背後の火焔に迦楼羅焔(鳥の嘴形)が薄く見えています。

  【迦楼羅形の焰部分】(迦楼羅は以前別の記事でも紹介)
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(符合しない要素)
④;「肥満」でなく、中肉の成人体型にも近い様ですし、衣装も唐草模様のボーダー付きの洒落た着こなしに見えます。
⑤;頭頂に「七莎髻」?・・7枚ではなく8枚の蓮華が見えます。
⑦;額に、水波形シワは見えません。
⑧;両眼は、左右非対称でなく、対称で正面見開きの様です。
⑭;盤石上ですが、坐像ではなく立像です。
⑯;憤怒の相とは言い切れず、自然な表情にも見えます。
⑱;宝剣に、倶利伽羅竜は絡んでいません。
⑲;独尊像で、二童子は従えていません。


これらの特徴は、『安然』以降の不動明王の制作年代を様式から推定する上での手掛かりとなる要素なのですが、半分近くが非該当で、残り半分位だけが該当している様です。



古い物にロマンを感じて空想を膨らませる事は、楽しくてすばらしいのですが、厳密な意味での由緒解明を進めるとなると、前途は多難かも知れません。(他にも時代推定などの手段は無くはないのですが・・・)






参考になりそうなので、ウィキペディアから「不動明王」関連の解説抜粋を下に張りつけます。(斜体・青文字)


【参考】
(前略)
不動明王は一面二臂で剣と羂索(けんじゃく、縄)を持つのを基本としている(密教の図像集などには多臂の不動明王像も説かれるが、立体像として造形されることはまれである)。剣は竜(倶利伽羅竜)が巻き付いている場合もあり、この事から「倶利伽羅剣」と呼ばれている。
(中略)
また、その身体は基本的に醜い青黒い色で表現される像容が多い。これはどぶ泥の色ともいわれ、煩悩の泥の中において衆生を済度せんことを表しているといわれる。しかし底哩経などには、身体の色は青黒か赤黄とあり、頂は七髷か八葉蓮華、衣は赤土色、右牙を上に出し左牙を外側に出す、というのが一般的とされる。

像容は肥満した童子形に作ることが多く(『大日経』の出典による)、怒りによって逆巻く髪は活動に支障のないよう弁髪でまとめ上げ、法具は極力付けず軽装で、法衣は片袖を破って結んでいる。その装束は古代インドの奴隷ないし従者の姿を基にしたものとされ、修行者に付き従いこれを守る存在であることを表している。右手に降魔の三鈷剣(魔を退散させると同時に人々の煩悩や因縁を断ち切る)、左手に羂索(けんじゃく。悪を縛り上げ、また煩悩から抜け出せない人々を縛ってでも救い上げるための投げ縄のようなもの)を握りしめ、背に迦楼羅焔(かるらえん。迦楼羅の形をした炎)を背負い、憤怒の相で粗岩(磐石、ばんじゃく。「金剛石」とあるのでダイヤモンドの原石である)の上に座して「一切の人々を救うまではここを動かじ」と決意する姿が一般的である(日本では坐像の他、立像も数多く存在している)。
インドで起こり、中国を経て日本に伝わった不動明王であるが、インドや中国には、その造像の遺例は非常に少ない。日本では、密教の流行に従い、盛んに造像が行われた。日本に現存する不動明王像のうち、平安初期の東寺講堂像、東寺御影堂像などの古い像は、両眼を正面に見開き、前歯で下唇を噛んで、左右の牙を下向きに出した、現実的な表情で製作されていた。しかし時代が降るにつれ、天地眼(右眼を見開き左眼を眇める、あるいは右眼で天、左眼で地を睨む)、牙上下出(右の牙を上方、左の牙を下方に向けて出す)という、左右非対称の姿の像が増えるようになる。これは10世紀、天台僧・安然らが不動明王を観想するために唱えた「不動十九観」に基づくものである。
(後略)








眉毛部分にある渦状の模様は、虎(猫科の一部)によく見る疑似目玉(眠っていて目を閉じている間も、敵に目を開いているかの様に思わせる事に役立つと言われる額の模様)にも似ていますので、牙や幅広の唇を含めて、虎顔からの影響(「憤怒」の恐ろしさを強調する為に?) も有るのではないかと考えられます。

(描いたのは画僧でしょうが、不明です)


比較的初期の不動明王らしく、素朴な表情と、殆ど腰を振らない素直な立ち姿には好感を覚えますが、絵の具や絹が脆くなっているので、掛け軸としては残念ながら観賞を続けられる状態にはありません。










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by Ru_p | 2013-01-18 15:23 | アート・コレクション | Comments(0)

地獄の閻魔??

閻魔天立像図(十二天図) 無款    06017e0259194_1835644.jpg
今回の画像も暗くて不鮮明でしたので、パソコンで下の様に調整してみました。






















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とても古い物(鎌倉以前?)で、欠損や修復の跡が多数ある仏画です。
人の顔が付いた杖(人頭幢)を持ち、温和な表情で菩薩(インド)風の服を着た「天部」です。
十二天図や曼荼羅の図像として、奈良時代にはこの様な姿が伝えられた様で、一般的に知られる憤怒の形相をした地獄の閻魔大王(鎌倉時代以降に普及する様になった十王信仰の)とは全く雰囲気が違いますが、ルーツは一緒だそうです。

参考で、以下に、ウィキペディアからの抜粋を張ってみます。
閻魔(えんま)は仏教、ヒンドゥー教などでの地獄の主。冥界の王・総司として死者の生前の罪を裁く神である。
中略
後に閻魔の本地とされる地蔵菩薩は奈良時代には『地蔵十輪経』によって伝来していたが、現世利益優先の当時の世相のもとでは普及しなかった。平安時代になって末法思想が蔓延するにしたがい源信らによって平安初期には貴族、平安後期には一般民衆と広く布教されるようになり、鎌倉初期には預修十王生七経から更なる偽経の『地蔵菩薩発心因縁十王経』(略して『地蔵十王経』)が生み出された。
中略
中国風の官服を身につけ忿怒の形相の閻魔大王が、鎌倉時代以降に彫像・図像ともに数多く作られたのに比べ、焔摩天の作例はそう多くはなく、そのほとんどは、十二天図や曼荼羅の図像としてである。
後略


また、十二天図は灌頂(密教で緒仏や曼荼羅と縁を結び、戒律や資格を授けて正統な継承者を決める儀式)の為に十二尊が一組で扱われるらしいのですが、これと組となりそうな天部の似た画像は残念ながら今のところ見つけられませんでした。(他の多くの十二天で見かける閻魔天の立像は、正面を向いていない物が多い様ですので、この画の場合には独尊として描かれた可能性も考えられます)

古くは生前に良い行いをした人は天界にあるヤマ(閻魔)の国に行くとされ、死者の楽園の王でもあるのだそうです。表情は温和なのですが、死者の生前の行いを裁く為に、杖の先の人の頭には嘘を見抜く機能があるのだそうで、顔に似合わず怖ろしい存在。 身に覚えのある方はご用心・・・・
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by Ru_p | 2013-01-17 20:17 | アート・コレクション | Comments(0)

大和絵の伊勢

    11014
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   たちぬはぬ 衣きし人も なきものを 何山姫の 布さらすらむ

 (古今和歌集926/伊勢) 
 「裁ち縫わない衣を着た人もいないのに、なぜ山の女神は布を晒すのでしょうか」
と言うのが主な意味ですが、曖昧な日本語の不便であって便利?なところなのか、別の意味も当然掛かっているので・・・

「大和絵」風の画で、36歌仙の一人『伊勢』の姿と、滝の一部が描かれています。江戸時代の作と思われ、自画賛の様ですが作者(狩野派?)は不詳です。
以前の紀貫之の記事での古今和歌集043・044でも、この『伊勢』が和歌の作者でしたが、今から1100年以上前の平安時代の人物です。伊勢守従五位上藤原継蔭の娘で、その継蔭の任地から、『伊勢』の通称で呼ばれていたのですが、当時は秀でた才能を認められた貴族の歌人であったのに、女性ということで、姓でも本名でも呼ばれないのが普通だったようです。
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この画は、当時まだ十代半ばだった『伊勢』が、恋人と別れ、傷心が癒えぬまま龍門寺に詣で、滝のもとで歌を詠んだ時の姿でしょう。豪華な十二単や長い素直な髪・ふくよかな顔の輪郭と額の化粧・細い一重の目と小さな口など『平安美人』の決まりごとは外さずに、後世の絵師が勝手な解釈で作り上げたものでしょうが、どことなく悲しげに見えます。

  「どんな姫が わたしの大事な人を去らせてしまったのか・・」なのかな?
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by Ru_p | 2013-01-14 08:58 | アート・コレクション | Comments(0)

呉道玄を模写?

楊柳観音立像図木版画 元画;呉道玄/模写;上田耕夫/彫;不詳  07021
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仏像はその出現以来、模写・模刻が繰り返され、優れたものは敬われ残されたと言う経緯が有って今に至ったのではないかと考えます。優れた仏像には多くの人が威厳を感じ、その美しさに癒されて来たと思います。
元の画を描いたとされる「呉道玄」は、唐代玄宗朝に仕え、それまでの画法に変革をもたらし「画聖」とまで呼ばれ、その画は、後世でも高い評価を受け、中国や日本の絵師に多大な影響を及ぼしたと言われています。
残念ながらそれを見ることは出来ませんが、模写を見ているだけでもその描線の力強さを感じさせられます。この画が模写された時点では、唐代に呉道玄の描いた優れたその仏画が日本に在ったのかも知れないと思うと、更に好奇心が湧いて来ます。


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銘文の部分の拡大画像をみますと、
呉道玄大悲尊像上田耕夫所臨(?)余詃
土山士景捐覚翻刻蔵之本寺将以(?)崇
信之士因識歳月於其端云
寛政十二年秋分後一日
前大乗護国禅寺禅無学誌

と読めます。
●元の画を描いたのが唐の呉道玄(5~6世紀)で、それを臨写したのが上田耕夫(?~1833/円山応挙の弟子で、上田耕沖の父)ということらしいです。
●「寛政十二年秋分後一日」は、西暦1800年9月24日、それが銘文の日付という意味だと思われます。
●「前大乗護国禅寺禅無学誌」は、この文が無学愚禅(1787年から加賀大乗寺43世となった)が記したもの、という意味だと思われます。
●逆算すると、版下の臨写(模写)が行われたのは、西暦1800年かそれ以前と言うことになりそうです。

木版画なので、他にも同一の品が存在する可能性が有ると思い、ネットの画像検索をしてみました。
全く同じ物は有りませんでしたが、よく似た画像は数件見付けました。ただし、鮮明な画像のあるサイトでは「学術目的のホームページへのリンク」に限り利用可能との条件が有りましたので、画像を直接は乗せられず、そのリンクを試ることにはします。
リンク画像は、上の画像と同じく楊柳観音立像でしたが、版下を模写したのが小池 曲江(1758年~1847年)と言う仙台藩の絵師で、文政6年4月(西暦1823年)に松島瑞巌寺にて造立された石碑の拓本のようです(サイズは約一割大く拡大されています)。それには、元の画の作者の情報の記載はありませんでした。
画像を見比べると判ると思いますが、(それぞれの版下画が描かれた時期には22年前後の開きはありますが)元の画が同一の可能性が大きいと思われます。木版と石碑と言う違いがありますが、全体の輪郭線が酷似しているにも拘わらず、細部の模様に異なっている部分が多々見られます。
このことから、模写時点で既に元画は酷く損傷していたのではないかと推測されます。(場合によっては現存はしていない可能性があります)

それとは別のサイトにも、「文化3年(1806年)に小泉斐によって模写された」酷似の肉筆画が、見つかりました。模写された時期が近いことからも、元の画が同一の可能性が高いとも考えられます。こちらの一つは大田原市の「県指定有形文化財」になっているそうです。他の一つは「栃木県文化財指定」になっている様です。共に元の画の作者が「呉道玄」と関わることの記述は無いようです。


上の画像中の無学の銘文は、仏画がそこで1200年近くもの時を飛び越えて伝搬した可能性を示す興味深い手掛りかと考えられます。またそれは、仏画(や仏像)をその様式で制作年代評価することの難しさをも示していると思います。
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by Ru_p | 2013-01-10 00:57 | アート・コレクション | Comments(0)

毘沙門天の

 毘沙門天立像図  11025
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七福神で有名な毘沙門天です。七福神は日本独自の信仰で、その一員とされた毘沙門天は、特に勝負事に利益があるとされて崇められて来たそうです。

元々はインド神話の財宝神クベーラが仏教の守護神に取り込まれたのだそうで、仏教では天部の四天王(持国天・増長天・広目天と共に)の一尊とされ、須弥山(仏教的世界観での中心地)の北を守る武神とされたのだそうです。
日本では四天王像の内の一尊の場合は「多聞天」、独尊像の場合は「毘沙門天」と呼び分けるのが通例だそうです。また、密教では十二天の一尊で北方を守護するともされています。

画の上に描かれているのは、毘沙門天の化身とも言われている天狗(烏天狗)です。
また、左右と下の描かれているのはムカデで、毘沙門天の眷属(遣い)と言われいます。毘沙門天を祀った京都の鞍馬寺では、昔は正月の初寅の縁日に「お福むかで」といい生きたムカデを売っていたそうです。天狗やムカデとの関連は中世以降に始まったものらしいのですが、この様に同じ画の中に描かれる例は比較的少ないようです。

画の右下に描かれているのは、吉祥天なのだそうです。
吉祥天は「七福神」(室町時代末期頃から信仰されている)の一員として、現在のメンバーに定着する以前にはその一員だったことが有るそうです(福禄寿と寿老人は元々同一と見なされ、その代わりでしたが)。
早くから仏教に取り入れられ、毘沙門天の居所を住所とし、未来には成仏し「吉祥摩尼宝生如来」になると言われているそうです。
「 吉祥」は繁栄・幸運を意味し、美女の代名詞ともなり、幸福・美・富を顕す神とされて尊敬を集めていました。
元はヒンドゥー教の女神で、ヒンドゥー教ではヴィシュヌ神の妃とされ、また愛神カーマの母だそうですが、仏教では毘沙門天の妃また妹ともされ、善膩師童子を子として持つとされています。
この画の様に毘沙門天図には脇待として吉祥天と善膩師童子が共に描かれる事が多い様です。

    02014
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 薬師寺蔵国宝吉祥天図:「麻布著色吉祥天像」の模写(この元の画でのモデルになったのは奈良時代の満14~15歳の少女だったようです)


ちなみに、毘沙門天の足の下に踏み据えられながら、イヤラシイ眼つきで吉祥天を見上げているのは、有名な天邪鬼(あまのじゃく)です。何処となく楽しそうで憎めないところがありますが、「仏敵」なのだそうです(これのモデルはおそらく異教徒の・・・・・)。
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by Ru_p | 2013-01-08 00:33 | アート・コレクション | Comments(0)

へびの化身

 弁才天図  作者不詳  6025
弁才天は以前にも一度採り上げましたが、「七福神」のメンバーの紅一点として有名です(吉祥天と混同され易いのですが異なります)。元々はインドのヒンドゥー教の河の女神だったのだそうです。
日本では仏教や神道に取り込まれたり、習合などの末に、仏教の守護神の「天部」として祀られるようになった、と言われています。
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この弁才天が頭に載せているのは、今年の干支であり、弁才天のシンボルである蛇で、それも神の遣いとされる白蛇です。(見方によってはギリシャ神話のメデューサの様な感じです)
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水辺で岩に座り琵琶を弾くこの弁才天の様な2臂の美しい女性の姿の他にも、龍の姿であったり、蛇の体に翁の顔だったりと、古くから様々な像容で祀られて来ました。その性格も、水神・財宝神・技芸神などと多彩で、今でも(そのご利益ゆえに?)根強く信仰され続けているそうです。
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by Ru_p | 2013-01-05 22:46 | アート・コレクション | Comments(0)

江戸の正月遊び

羽根遊美人図 無落款   07018
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髪型・顔・服装などから、江戸時代初期と思われる若い女性の風俗画です。

斜め上から俯瞰した姿を描いているのですが、頭と胴体との比率を計って見ると7倍以上なので、当時としては意図的に「小顔・長身」を強調して描いた「美人画」だったのではないかと思われます。
この顔が当時の流行だったのか、単に作者の好みだったのかは判りませんが、頬や顎のふくよかかさが極端に強調され、口が小さく、細い一重の目にはまつげすら全く描かれていないこなど、現代人にとっては少々異様にすら見えます。

ところで、この頃も羽根突きは正月の遊びだったのですが、少し興味深かいのは、この画の羽子板の形が現代に伝わっているものと殆ど変わっていないことです。
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正月の羽根突き遊びは、室町時代からあったそうですが、羽子板が「災いを跳ね除ける魔除けや、女の子の健やかな成長を願う」正月の縁起物として市などで多く売られるようになったのは今から約400年前からだそうです。
当初の図柄は宮中で行われた「左義長」等の儀式を描いた縁起物が多かったそうで、この羽子板の図柄にも松や亀甲柄など縁起が良いとされる図柄が描かれてます。また、現代の主流となっている人物柄(役者絵など)を「押し絵」として描く物は江戸後期の文化・文政の頃以降に多く出回る様になったのだそうですが、羽根の部分に関しては今も昔もあまり変わっていないそうです。
意外にも、正月の遊びには、日本人の伝統的な風習が、極最近まで残されていたと言うことなのでしょう。
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by Ru_p | 2013-01-02 03:32 | アート・コレクション | Comments(0)


妄想猫の起末具連記


by Ru_p

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