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カテゴリ:アート・コレクション( 121 )

表装は楽し・・・(2)

先日、某工房にて、大好きな井上有一作品の表装作業を、手伝わさせてもらいました。
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井上有一さんは、多くの作品で、墨跡を意図的に強調する為に「ボンド墨(※1)」と呼ばれる特殊な墨を工夫して使っていたそうです。また、紙も、滲みを面白く活かす為でしょうか、意図的に紙の裏(荒い方の面:紙を漉いた後で乾燥板に張る方でない面)に書いていた様です。

まず、古くてシミや汚れのある作品の、既存の裏打ち(肌裏まで)を剥がし、状況を確認します。
作品によっては、裏打ちに安易な熱圧着タイプの糊や化学糊(伝統的な正麩糊などに対する近代の合成接着剤の呼び方)が使われてしまっていてキレイに剥がせない場合もありますが、これは、幸いにして正麩の薄糊だったらしく、乾燥状態でも容易に剥がせました。(もしも剥がせない接着方法の場合、残念ながら修復が難しいので、遠からずゴミとなる運命に・・・)

作品の端部から裏面にまで、溢れた「墨」が回り込み、分厚く固化した状態の部位では、裏側の分のみを削って(作品として見えなくなる部分ですので、やむを得ず)除去します。
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本紙のみの状態に戻したら、敷紙(今回はレーヨン紙)の上に伏せて、本紙裏面から加湿して全体を潤ませ、皺などを整形する作業ですが、文字の部分に墨が厚く固まってしまっているので、なかなか均等には潤みが進みませんでした。ただ、そこで余分な成分が溶け出して滲む事がなかったのは幸いでした。(破れや、特に「墨」の部分での筆圧によると思われる穴・捲れ・撚れ等があったりしますが、ここでは丁寧に解き、局部的に整形修正して、なるべく均一な平面に直します:吸い込みの良い紙では、墨の水分による吸湿と乾燥とで、数パーセントの伸縮がありますので、文字などの墨の多い部分では引き攣った様に歪み、無理矢理平面に張り付けると皺や破れとなります

新たな肌裏には、機械漉きで薄い紙(国内産楮)。増裏には、少し厚い炭酸カルシウム入り楮紙(本紙の酸性化による脆化を予防して、耐久性を増す事が目的ですが、直接本紙に触れることは避け)を使い、裏打ち後は表側の敷紙を直ちに除去してから置き敷き乾燥させ、数日後、周囲に糊を塗って仮張りの板に張り伸ばして、乾燥を待ちます。

普通は、この段階で経年によるシミや汚れの多くが抜け去り、キレイで平らな状態に戻りますので、それが表装作業でのひとつの醍醐味かもしれません。


今回は、金沢21世紀美術館にて2016年1月から展示される(全206点の有一作品群の一部として出品される)ことになるそうなので、掛け軸ではなく、パネル張りとします。
本紙サイズに合わせて特注制作したパネル材の表面には、砥の粉等の付着物が着いた状態なので、十分に水拭きで落とし、アクの染み出しを防ぐ為に、裏表ともに薄めた柿渋(伝統的な防水材/裏側にも塗るのは乾燥による反りを防ぐ為や木材から発生するガスの影響を抑える目的も)を塗り数日間乾燥させます。
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パネル材の表側全面に、炭酸カルシウム含有(※2)の楮紙小片をベタ張りした後、薄肉厚楮紙小片を袋張りし、加湿した本紙(裏打ち済み)の周囲に糊を塗って張り込み、電気ゴテで周囲を固め、乾燥を待ち、棹縁を廻して固定すれば完成となります。

美術館での展示は、かなり暗い条件となるらしいので、もしも、パネル張りでのこれらの中間作業が、殆ど省略されていたとしても、来館者には、何も気付かれないのかもしれませんが、見えない部分の品質には、携わった者にだけに判る自信や自負があり、まるでドラマに出てきそうな、ちょっと希少なこだわりの世界がまだ残っていて ・・・たのし






※1 「ボンド」は、接着剤の商標で、「つなぐ」・「結ぶ」の意味を持つ単語ですが、一般的には水溶性で酢酸ビニルなどを主成分とする「白ボンド」を指す事が多いと思われます。ただ、それを墨に混ぜた場合、大切な筆の洗いでの保守作業(有一さんの場合は奥様が担当されていました)が難しくなることや、酸性化による筆や紙の劣化を進めてしまうので、実際に有一さんがそれを長く使い続けていたとは考え難い事です。今回採取した墨の欠片は大切に保管してありますので、いずれ組成の分析も可能でしょう。

※2 炭酸カルシウムを含ませた紙は、主には紙を白く見せる事と、透けを防ぐ為に不透明感を増す事が目的で使われています。但し今回の様に、下張りとして使う理由は、遠い将来の事をも見据えて本紙の酸性化による脆化の劣化を予防する目的です。優れた文化財の寿命は、人間のそれよりも遙かに長くあるべきなので、その様な配慮が必要となるのです。




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by Ru_p | 2015-11-19 19:13 | アート・コレクション | Comments(0)

オウム も見てた芦雪

長沢芦雪筆 鸚鵡図 (紙本彩色)  15015  44.5x127
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一瞬、何が描かれているのか(?)と戸惑いそな構図ですが、じきに、とぼけた顔で、目の可愛いオウムが正面を向いて茅葺き屋根の上に留まっている様子の画だと分かります。(当時としては、珍しい南方から輸入された鳥)
屋根は上から見下ろす様な形なのですが、オウムと月は、下から見上げる様なので、幾分奇妙な位置関係に感じられます。
 
芦雪の描いた生き物の作品には、特徴の有る方向からだけでなく、あえて描き難い(特徴を捉え難い)方向から描いた画がしばしば見られます。
(この嘴の描き方、なんとなく見覚えもあり・・・けっこう好きです)
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    (目力!)   


ところで、芦雪は、ある事故が原因で片目の視力を失っていたとも言われています。
その事故とは、淀藩に仕えていた芦雪が、藩主稲葉公に独楽の芸を披露した際、放り上げた独楽を受け損ねて、片目に刺さってしまった、と言う事態だったそうです。

いつ頃の事なのか?どちら側の目だったのか?視力は全く失われたのか?などの詳しい事は判らないのですが、もしも、そんな事故が実際に起こったのならば、画の腕前でなく独楽の芸の披露だった訳ですので、若い頃の出来事なのだろうと思われます。(芦雪は29歳で既に「平安人物誌」に、画家として名が載っていた知名人)
かと言って、もっと若い十代から片目では、応挙門への入門も修行も出来なかったでしょうから、恐らくは二十代の終わり(天明初期)頃だったのではないかと思われます。

この事故が原因で、ある時期から両眼視が出来なくなったと仮定するならば、当然それ以後の画の作風に何らかの影響があったと考えられます。
(例えば、芦雪の「美人画」では、天明の始め頃とそれの後とでは作風が明らかに変わったとの評価があります)

片目で物を見た場合、側面の情報を気にせずに済む(空間全体を把握して、より良い視点のアングルを求めたいという無意識の衝動が抑えられる)のではないか(?)と考えられます。また、視野が狭くなる事に伴い、対象物が視界からはみ出る様な多少不自然な距離感をも容認出来てしまう可能性が考えられます。(それってもしや、あの奇抜な構図が生まれた理由に・・・?)

残った片方の目が、右脳が主導的に支配する左目だったのかどうかも判りませんが、奇抜な構図や奔放な筆遣いが特徴として現れた原因が、この失明事件と関連していたのか(?)と意識して、作品群を見直してみることで、納得も期待出来るし、新しい発見も有るのではないかと思います。

上の画は、落款の書体(草書に変える前の楷書の時期の)と、印章(「朱文氷形印」で外周に年代判別の指標となる欠けが見られないこと)から、寛政3年以前の作品と思われますが、

この頃には、もう既に・・・・











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by Ru_p | 2015-09-02 20:47 | アート・コレクション | Comments(0)

歌麿に 三代目・・・?

榮文筆  柳下美人図 (南木山人画賛)  15014 39x89
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この画の作者 栄文(えいぶん)は、「栄文歌麿」または「別人歌麿」とも呼ばれていましたが、世界的に有名だった(初代の)喜多川歌麿とは、別の人です。

作例は少なくて、文化年間〈1804~1818年〉に描かれた僅か数点の肉筆浮世絵が知られていただけだったそうです。
(・・・となると、この画は新発見なのかも知れません)

筆致は初代歌麿や二代目歌麿とは幾らか異なります(この画の場合には、当初の師匠だった鳥文齋栄之の影響と思われる「品格」が幾らか感じられます)。
描いた美人画のレベルは高く、歌麿にも迫るとの評判もあったそうです。ただ、作品の絶対数が少なかった事もあり、必ずしも、十分な人気は得られなかった様で、彼の記録は殆ど残っていません。(もしも、木版画を手掛けるなど、上手に宣伝活動をしていれば、更に高い評価も得られていたことでしょうに)

作画時期が特定出来ないのですが、彼の作品の中には、落款に「歌麿」(又はそれに類した)の署名をした謎の作品が、何点かあるようです。
初代歌麿をそっくりコピーをした訳ではなく、独自の印章を使うなどの自己主張も見られますので、必ずしも真剣に「喜多川歌麿」の偽物作品を描こうとしたとは、不自然で考えにくいのです。
初代歌麿(~1806)又は二代目歌麿と何らかの接点が有り、その門人となったとか、三代目を襲名していたと考えれば納得出来そうなのですが、残念ながらそれを裏付ける資料は見付かっていません。

この人物の筆と思われる画の落款には、「栄文筆」「一掬斎(いっきくさい)栄文」「栄文菅原利信筆」「鳥文斎一流 一掬斎栄文筆」「歌麿筆」「喜多川主人筆」等と、無署名も含めて複数の例が有ります。
ところが、それらの印章に関しては「自成弌家」「拂袖」等の共通する物が使い回される例が見られたので、同一人物の作と判断(推定)されている様です。

資料不足の為にか、あまり掘り下げた研究はされていなかったのかも知れません。
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画像の見られる作品例では、

二女図」(東京国立博物館所蔵)には、上の画の落款と酷似の「自成弌家」の印章が見られますが、署名は無い様です。
ちろり美人図」(熊本県立美術館所蔵)には、落款に「喜多川主人哥麿」と記し、「拂袖」の朱文長方印を捺してある様です。
また、
「肉筆浮世絵 美人画集成Ⅰ」(毎日新聞社刊) にも下記3例の画像掲載があります。
「矢場の女図」  (署名:哥麿筆)
「夕涼み美人図」 (署名:喜多川主人筆)
「若衆と美人図」 (署名:無署名)



栄文は当初、喜多川歌麿とは、人気を二分するライバル関係にあった鳥文斎栄之の門人だったそうです。その栄之の門人達の多くが「鳥〇齋」と言う様に名の頭に「鳥」の文字を置いていた中で、一掬斎(「一掬」には「少しの期間」の意味が有るらしい)と言う変わった字を落款頭に使っていました。
落款での「一掬斎」や「自成弌家」の印章は、例えば、栄之とは決別を果たした事を意味するものだったのでしょうか?
「歌麿筆」や「喜多川主人筆」などと、敢えて波風を立てる様に挑戦的に、師匠のライバルだった一派の名前を使ったのは、三代目を引き継いだ事を、主張したかったからでしょうか?


なやましくも、永遠の謎に・・・・









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by Ru_p | 2015-08-29 22:37 | アート・コレクション | Comments(0)

御神木だった「首尾の松」

鳥文齋栄之筆 「首尾の松」(絹本肉筆浮世絵/太田蜀山人画賛) 15005 29x83
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紅い楓と、東の空に浮かぶ月、群れで飛ぶ雁とを併せて、静かに暮れるもの寂しい秋の情景を演出している様に見えます。(この月ですと、ほぼ満月で雲が少し掛かった状況かと思われます)

画賛には
夕汐に 月の桂の 棹さして さてよい首尾の 松をみるかな
とありますので、これは「首尾の松」と呼ばれて浅草の新吉原にもほど近い江戸名所の画だった様です。(画賛にある「月の桂」は、中国の古い伝説からの引用で、月の影又は月の光を表した言葉と思われます~「桂」と「松」との対比も狙って・・)

画の作者は、鳥文斎栄之(ちょうぶんさい えいし/本名:細田時富/1756~1829年)という旗本出身の絵師(人気の浮世絵師)の様です。
上の画賛を書き加えたのは、御家人でありながら狂歌師でもあり、非常に多くの書画に画賛を書き加えて残した人として有名な蜀山人(本名:大田 南畝/1749~1823年の別号)の様で、栄之とは交友が深かった様です。
蜀山人が、文化5年(西暦1808年)頃、「首尾の松に月出て舟ある画」にこれとほほ同じ文の画賛を書いたという記録(出典:千紅万紫)が残されていますので、それがこの画の事である可能性が高そうです。
西暦1808年の少し前(※)に描かれたことになれば、葛飾北斎が狂歌絵本「絵本隅田川両岸一覧」の中で描いている「首尾松の鉤船」の図が、ほぼ同じ頃の同じ場所の風景の様です。また、広重の「名所江戸百景」の木版画は、それよりも約50年後の同じ場所の風景という事になりそうです。


ここの主役となる松は「御蔵神木首尾の松」とも呼ばれていたそうですので、画面左下に見える小さな屋根が、その神木を祀った祠の様です。

首尾の松は、安永年間の強風災害のために、倒れてしまい、その後幾度も手当が試みられたそうです。画をよく見ると、確かに傾き過ぎて懸崖で川に跳ね出している様に見えますので、その話とも一致しています。
支柱の内で古くて朽ちたような何本かは短く描かれていますので、霊験が有ると信じられていたこの松は、災害の後も長い間人々に大切に守られ続けていたのだと思われます。

安永9年8月25日(西暦1779年10月4日)、日本各地に疲害をもたらした台風が、この辺も通った様で、神田川も氾濫・浸水したという記録が残っているそうです。
当時の松は、残念ながら江戸末期の安政年間(1854~1859)には枯れてしまっていたそうで、現在見られる松は後継の何代目かになる別物なのだそうです。
ここの場所は、現在の住居表示では台東区蔵前1丁目の隅田川西岸付近に当たり、上部に蔵前橋が掛かっていますが、江戸時代末期の「江戸切絵図」と見比べると、当時幕府の米倉庫「御蔵」があり、そこに隅田川から運搬舟を引き込む為の堀が8本あり、その4~5番目の間の突堤の先に、この松が位置していた様です。
ちなみに、川の対岸右側に見える施設は、その当時は、丹後宮津藩の下屋敷(現在は旧安田庭園:藩主は松平姓を与えられて名乗りましたが、元は本条氏で、地名の『本所』の語源なのだそうです)の辺りですので、その一部かとも思われます(そこの右には、『本所の七不思議』の「椎の木屋敷」とも呼ばれた名所の肥前国平戸藩松浦家下屋敷もあった様です)。


当時ここの少し上流には「御蔵(おくら)の渡し」とも呼ばれた渡し場もあり、舟で新吉原(この川の上流で画面左側方向に約2キロ)へ向かう客達の多くがここを通って目印としていたので、蜀山人の画賛にも有る様に、その夜の好い首尾の結末を見ることをこの御神木に掛けて祈願していたことでしょう。
松の向こうの川面に浮かぶ猪牙舟(ちょきぶね)にはそんな客達が乗っていたのかも知れませんね。

ということは、これって「神仏画」でもあり・・??



祠の屋根の上の千木(ちぎ;神社建築の屋根のにある部材)の先端部分を拡大すると、何となく「内削ぎ」と呼ばれる水平の切断形に描かれている様に見えます。
そうだとすると、ここの祠は「女神」を祀ったものになりそうです。(男神の祠の屋根にある千木は、先端の切断面が垂直の向き)
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果たして、吉原での「好い首尾」を祈願するのに、女性の神様の方がご利益があったということなのでしょうか?



まさか、そんな身勝手な願い事が重荷になって、枯れてしまった・・・?








※栄之は寛政12年(1800年)に、御物に収められた作品の中で、「隅田川図巻」として、この首尾の松をも含めた風景画を描いていたそうで、それが栄之の同類作の中では最も初期の作品と考えられているそうです。(出光コレクション「肉筆浮世絵」解説文より)。その説に依れば、上の画の制作時期は、1801~(1808)年の制作だった様です。
ちなみに、上の画とほぼ同じ構図構成の画は「バーク・コレクション」にもあり、同じく蜀山人の画賛が書かれていますが、微妙に風情が異なるのが面白いです。


ところで、それ等を描くために使った下絵の制作年代(すなわち、この画の情景が実際に見られた時期)は何時だったのでしょうね?。

長い歴史を持つ松なので、同じテーマの画は他の作者に多いのですが、それぞれの制作年代の違いによって、松の表情や背景の様子が微妙に違っていますので。








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by Ru_p | 2015-08-18 22:45 | アート・コレクション | Comments(0)

夏の風物詩 (海水浴)

「波と婦子」  二代目 歌川芳宗筆(肉筆画)   13007 40x105
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二代目 歌川芳宗は、文久3年に江戸で生まれ、明治時代に活動した浮世絵師です。
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明治時代中頃には、欧米人の健康志向による海水浴に影響され、日本でも上流階級を中心に、海水浴がブームになったことがあったそうです。

この画の描かれた時代が何時頃なのか厳密には判りませんが、この女性は(和風の腰巻きでなく)洋風の下着姿(?)なので、少なくとも明治中期以降の情景なのでしょう。
有名なシマウマ水着が出現したのは、明治の終わりから大正に掛けてだったそうですので、それ以前の情景なでしょうか。 (それとも、ただ単に水着の準備が無かっただけ?)

この女性は、海女の様に上半身をあらわにしていますが、昔の日本人の裸に対する羞恥の意識は、今日と比べるとかなり大らかだった様です。(公衆浴場でも、混浴が一般的だったとかで)
明治以降は欧米の文化の影響も有って、お上によって人前での裸姿が禁止され、裸体が見苦しく野蛮なものと言う観念が、日本人の心に植え付けられてしまったのかも知れませんね。

夏の暑い日に、静かな海辺で、水に浸かり涼を求める母と子の様に見えますが、人影の無いプライベートビーチで、こんな穏やかな時間を過ごせるとは、
           
        まさに『古き良き時代』の・・・
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by Ru_p | 2015-07-31 14:10 | アート・コレクション | Comments(2)

江戸の餅つき・・(北斎)

餅つきの図 「前北斎為一筆」(絹本 肉筆画)  15009 49.7x40.6 
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前北斎為一(まえほくさいいいつ)と言う名は、葛飾北斎(1760~1849年)の60代始めから70代半ばに使われていた画号なので、真筆ならば今から二百年近く前の肉筆浮世絵ということになりそうです。
(その頃既に「北斎」と言う号は、弟子に譲ってしまっていたので、「北斎だったが、今は為一」と言う、いい加減な理由で命名し、使われていた画号 / 時代が経ち過ぎたので、たとへ真筆であっても、厳密な意味で、その事を証明をする手段は、もうありません:古い物の宿命)

餅の絡んだ杵を力の限りに振り上げ、極まった瞬間らしく、その周りの3人の仕種や表情も、実に活き活きと描かれています。多くの木版画絵本で人気挿絵師として好評を博した北斎らしい画力と構成力(※1)を感じます。

江戸庶民の風俗が画題なのですが、各登場人物(餅つき職人)を連携させる様な構図がバランス良く組み立てられ、全体として躍動感と見応えを感じます。


他の北斎の画でも、雰囲気や存在感を強調する為に重要な役処には、非常に極端な体勢(無理な姿勢)をとらせる事があり、見ている側は楽しいのですが、「まさか、可能だろうか・・・」と感じつつも、知らず知らずに引き込まれていることがよくあります。

腰 折れそっ !!
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例えば、美人画で首を極端に前傾させるなど、人や動物の姿勢の誇張・風景画では遠近感や大きさや勾配などの誇張、 と絶妙で巧みに「誇張」を操ることが得意だったようです。
(やはり、天才・・・!)


(※1)
北斎が50代の頃に、描き貯めた下絵を基に編纂された万民向けの木版画絵手本誌の『北斎漫画』(十二編)の中に、下の様に似た画を見つけました。
(見開き頁左右の画「餅ハ餅屋」を結合して表示:下の木版画の原稿は、上の肉筆浮世絵よりも10年以上前に描かれたことになりそうなのですが、比べると進化の跡?が見られ・・・ 、設定や人物の数が幾分変わっています;北斎の性格ならば、未熟だった頃の似た画と全く同じ構成で描くことは、自在に発想出来るという自負やプライドからも、避けたかったのではないかと思われます)
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肉筆画の方では、歴史風俗記録画としての資料性は薄れているのかも知れませんが、描線や添景が洗練(無駄なく簡略化)され、楽しく滑稽な雰囲気はより強調されたよう・・
鑑賞者の視線が自然に誘導される先を辿ると、ループとなって循環させられる様な構成のトリックもある?(一つの画面なのに、人物毎に目で追って注視すると、自然に次の人物に視線が誘導され、コマの無いマンガや絵巻物の場面を見る様ですし、さらには餅をつくリズム感や声まで感じられる様で、楽しませてくれる画です) 

 笑顔が幸せそう・・・







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by Ru_p | 2015-06-15 00:08 | アート・コレクション | Comments(0)

だるまさんが・・ (北斎)

達磨図 北斎画   15003 28.1x19.8 紙本
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達磨は中国の禅宗の開祖とされていて、インド人の仏教僧でした。
現在まで残っているのは僅かですが、北斎は、その生涯に数多くの達磨図を、好んで描いていた様です。
(北斎は、妙見を始め様々な仏尊を信仰し、また描いてもていた様ですが、彼自身の仏門の宗派は不明らしいです)


北斎は、この様なヒゲ面でとぼけた雰囲気の顔(ちょっと顎を突き出す様なしぐさ)の人物を多く描いていました。
現存する自画像や肖像とは違う様ですが、実際の北斎自身の雰囲気(又は、その内面)がこんなだったのではないか(?)と想像してしまいます。人物画が描く人自身に似て来るのは自然な事なので、場合に依っては『眼瞼下垂』(まぶたが下がりがちになる症状)があった可能性も考えられます。また、寛いだ雰囲気の画に特にそれが多いので、画業で日頃頭部を前傾させる事が多かった彼には、首の凝りを癒すために、頭を後方に反らせて休憩する習慣があったのかも知れません。




線が雑に見えますので「席画」として描かれた物でしょうか・・・
(落款・印章から北斎五十代始め頃の制作かと思われます)











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by Ru_p | 2015-06-13 00:11 | アート・コレクション | Comments(0)

見性成仏・・・・ (白隠)

達磨図 白隠筆 14003 35.5x38.5 紙本
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これは白隠さんが禅の教えを説く為に描いた『禅画』なのだそうです。

画の中で、眼光鋭く「見性成佛」と唱えている達磨ですが、この言葉は「人の本性をしっかり見据えることで仏道を成就する」と言う意味らしいです。実際に達磨が使った言葉なのかどうかは不明らしいのですが、白隠さんはこの様な達磨図を生涯に数多く描き残し、画の中で一貫してこの(この字を含む「直指人心見性成佛」の)語を唱えていた様です。











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by Ru_p | 2015-06-12 19:53 | アート・コレクション | Comments(0)

三羽ガラス (芦雪)

柳に烏の図 「平安芦雪 写」 (長沢芦雪) 15007 44.7x121.5 紙本
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落款(印章が珍しい)の筆跡に幾らか乱れは感じられますが、いかにも芦雪(晩年近い)の描きそうな画に見えます。(真筆だとしても、もう誰も立証はできませんが、逆にその否定も難しいでしょう)
見ていて飽きず、何故か癒やされる好きな画です。


枝垂れ柳に三羽の烏(ハシボソガラス?)が留まっています。
一般に『三羽ガラス』は、特定の組織内で技量の優れたトップ3を指します。

この画の烏が人の「見立て」だとすれば、芦雪に関連する場合のそんな3人は、円山応挙門下の「応挙十哲」の内の誰かと言うことになるのかも知れませんね。
この画が描かれたと思われる当時の「応挙十哲」筆頭といえば、「長沢蘆雪・駒井源琦・山跡鶴嶺」(この内の山跡鶴嶺と応挙は西暦1795年には亡くなっています)だった様です。
その辺に関連して何らかの「もめ事」(権力争い?)が有ったのだとしても不思議な事ではありません。

そんな見立てで描かれた可能性を踏まえて見直すと(同門同士の画業の優劣は別として)、

      芦雪自身は、おそらく手前で別の方角を向いた・・・(?)












































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by Ru_p | 2015-06-12 12:51 | アート・コレクション | Comments(2)

お釈迦さまの・・・?

清凉寺式釈迦如来立像図  紙本肉筆(紺紙金泥/無落款) 10.8×25.4cm (15006)
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A4サイズに収まる本紙をスキャン(上)して、編集ソフトで鮮明に処理(下)してみました。
(顔などの皮膚には金泥が塗られていますが、色調の厳密な再現は難かしく・・)
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 「清凉寺式釈迦如来像」は、
お釈迦さまの生存中にその姿を、古代インドの優填(うでん)王が栴檀(せんだん)の材にて造らせた(①)と言われる伝説の像が、後に中国に運ばれ、更にその模刻(②)が、東大寺の学僧 奝然(ちょうねん)によって、西暦986年に中国から日本にまで運ばれ(現在は清凉寺に安置されているほぼ等身大の立像)それを基に、その模刻(③)が更に各地に伝え広められたと言われる壮大な由緒をもつ釈迦如来像の事なのです。
(お釈迦さまの姿のコピーのコピー・・・の像で、改めての仏教の基本情報が伝来)

上記①のコピーは、実際に存命中に行われたのでしょうか?/その像は全く現存していないのでしょうか?

お釈迦さまは、紀元前5世紀ごろの北インドの人で、悟りを得て「仏陀」と呼ばれる様になった仏教の開祖です。その弟子達への教えでは、修行によって悟りを得る事を目標とし「偶像崇拝」はさせなかったらしい(本来の仏陀の教えは、「信仰」と言うよりも「哲学」の性格が強かった為)のですが、歿後に時が経つにつれ、教えの解釈も変わり、救いを求める人々はお釈迦さまの姿を模した像や遺骨に何らかの霊的な力を期待する様に変わって行った様です。ですから、仏像としての釈迦像が造られたのは、実際にはその没後5世紀以上経ってからと言う説が一般的で、優填王の伝説の像がお釈迦さまの存命中に作られたと言う伝説は、残念ながら今日では必ずしも有力な説ではない様です。

清凉寺に置かれている(上記②の)釈迦像は、「三国伝来の釈迦像」として尊ばれ、お釈迦さまの没後15世紀近く経っていた平安期には、仏教(当時の大乗仏教)を原点から見直す釈迦信仰を大いに盛り上げ、鎌倉期頃までは盛んに模刻が行われた様です。(模刻の行為も仏陀のクールな教えには反しそうなのですが・・)

清凉寺の釈迦如来像には、インド、ガンダーラ風の特徴(縄目状の頭髪や、通肩〔つうけん:両肩を衣に通す姿〕の衣に深く刻まれた流水線状の衣文等)が有るそうです。その仏像の伝搬のルートが「北伝」と呼ばれて中央アジアを辿ったことから、日本に仏教が初めて伝えられた頃に伝搬されて来たと考えられている東南アジア経由のルート(南伝)の様式とは学術的には区別されているのだそうです。
(清凉寺の釈迦如来像は、歴史資料としても重要な為、現在国宝に指定されています)

鎌倉期頃までの作で現存する清凉寺式釈迦如来は殆どが木彫で、意外なことにこの様な仏画での遺例は稀らしく、金蓮寺(京都)・西大寺(奈良)・根津美術館(東京)で所蔵されている他には、確認されていなかったのだそうです。
(大乗仏教の阿弥陀信仰が盛り返えしたとしても、清凉寺式釈迦像の模刻は鎌倉期でも盛んに行われていたはずなので、探せばまだまだ出てきそうな気もしますが)


上の画は、清凉寺の釈迦如来像(又はその模刻)を高度な技術の絵師が、小さな画寸の中に極限まで細密に縮小して写し取った物(上記③に相当する像高約14cmの6頭身像)の様です。高価な料紙や絵の具を含めて、極めて完成度が高い事から、おそらくは高貴な人物の念持仏(個人が身近に置いて礼拝する為の仏像)として特に丁寧に作られた物だと思われます。
(掛け軸状態ではなく、薄板に張って折りたたまれた形の表具なので、絵の具の剥落は少ないのですが、本紙は脆化が進み、割れや剥がれ落ちた部分が見られます。顔などには金泥による少し雑な修復跡があり、それ以外の本紙部分を見ると、特に細かい亀裂があるので、年代測定はしていませんが時代的な古さには期待が持てそうです。ただ、細かいので今後の修復には苦労しそう・・)

この顔の表情には、慈悲深さや落ち着きのある「和」の雰囲気も感じらるので、見ていて気持ちが癒やされます。
(今日と違い、誰もが気軽には目に出来なかった時代の遺物かと思うと、何だか更にありがた・・・ )
























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by Ru_p | 2015-05-05 23:53 | アート・コレクション | Comments(0)


妄想猫の起末具連記


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