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カテゴリ:アート・コレクション( 121 )

大文字焼き?(蘆雪)

大文字送り火の図 長沢芦雪筆(蘆雪写)     17011  紙本:48×111

年中行事で、盆送りの風景(「夏の風物詩」)の様です。
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画の右上部分には、山の中腹で、大の字形に配した薪(火床)に、松明で上方から順次点火している様子が描かれています。
(京都では歴史的背景もあり「大文字焼き」とは呼ばれないそうです )

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盆送りは旧暦7月中旬、夕刻に行われていた行事なので、全体に暗く描かれていますが、現代の大文字送り(毎年8月16日20時に点火)よりは、少し早い時刻の様です。

盆の送り火での薪は、一般的には、すぐに火が点き、すぐに燃え尽きる麻がらが燃やされています。この画の場合でも、細く真っ直ぐな(麻がらの様に見える)薪が火床毎に積まれている様です。画だけでは厳密な材質の判別は出来ませんが、予め乾燥させておいた薪を、参加者達が分担して持ち寄り設置したのでしょう(現代の京都五山の送り火では、もう少し太い材の護摩木が使われているので、その分で燃焼の時間が延びそう )。

高い所の炎と煙は、強い風(南から?)に煽られたらしく、殆ど水平に棚引いて見えますので、火事が心配になる勢いなのですが、この後にはきっと参加者達によって、確実に残り火の始末が行われていたのでしょう。

描かれている人物は、何れも屈強そうな男ばかりで、数えてみると41人。髪型や衣服、それに表情から、近隣に住む顔見知りの仲間同士の様です(中には裸足で参加している人もいます)。
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【長沢蘆雪の、若い頃の画?】

更に一人づつを見比べると、体型・姿勢・顔つき・服装・持ち物など、執拗な観察に基づき、意図的に「描き分け」を試みた(極端なほど別々の個性を強調)とも感じ取れます。

登場人物の表現方法では、職業絵師(後年の蘆雪の場合にも)であれば、主要な人物の表情には特に重点を置き、そうでもない存在には味付けを省略する表現が多いのですが、この画の場合には、雲や樹木などと省略に使えそうな要素が多いのに、それ等を要領よく使おうとする逃げが見えません。ある意味では、敢えて「十人十色」又は「百人百様」への描き分け表現に挑戦した、かの様です(師匠の指導だったのか?)。

ここでの、人物を妥協せずに描き込みきろうとする姿勢には、まるで師(応挙)の作品で「七難七福図巻(1768年制作:重要文化財)」などにも見られる様な生真面目なまでの拘り(後年の蘆雪なら、もっと気楽そうな・・)が感じられます。

長沢蘆雪(1754~1799)の落款で、楷書での署名の例は、主に天明年間の頃(二十代半ばから三十代始め頃まで)に使われていたのですが、ここの署名には、その最も初期の作品として知られる「東山名所風俗図(1778年制作)」にも近い雰囲気(真摯なぎごちなさ)が感じられます。

また、この画の本紙に使われている紙ですが、きわめて薄くて繊維の短い紙(画宣紙?)で、小さく半端なサイズの紙が十数枚継ぎ合わされ、裏打ちで整えた状態にして使われている様です。それも、比較的不器用そうな継ぎ跡なので、場合によっては、絵師として世間に認められる前の蘆雪(二十代半ば頃?)が、自から準備を試みた、貧しい修業時代の画材だったのかも知れません。
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(用紙の継ぎ目部分が粗雑;明暗を調整して拡大)




修業時代の蘆雪が通っていた京都四条の師(応挙)の住まいは、大文字の送りが行われた京都東山の如意ヶ嶽にも近いので、その山で描いた下絵を基に、この画が描かれたのかも知れないと考えれば、つじつまは合いそうです。




ところで、この画(掛け軸)の軸先には、仏表具の時に使われる金物(金属製品)が付いていますので、仏画として表具に仕立てられた様です。
盆送りは、仏教関連の宗教行事(現在では、地元の保存会の方々等によって運営されている様ですが)でもあるので、仏画として扱われていたとしても、不自然とは言えないでしょう。
ただ、画(本紙)の周辺部を二分(約6ミリ)以上の幅で(裂が)覆い隠す様な、粗雑な表装が行われているので、長い間所有者にあまり関心(興味)を持たれて来なかった可能性はあります。
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なぜ仏表具の軸先に金物が使われる様になったのか、と言うことの合理的な説明は殆ど語られていない様ですが、牙や骨などの殺生(宗派に依っては、戒律で禁ずる)で得られる材料を避ける(表具師の拡大解釈?)ためだったのかもしれません。



実際にこの画を蘆雪が描いたという客観的な立証は、今更誰にも出来ないのですが、この様に真面目に写された画なので、少なくとも江戸中期の風俗を知る上での希少な資料(大文字送り関する歴史的資料は、残念なことに、多くは残ってないのだそうです)とは言えるでしょう。




一般的に、有名な絵描きの初期の作品には、「若描き」と呼ばれて、あまり高くは評価をされない傾向がありますが、長沢蘆雪の場合には、殆どの作品で制作時期の情報が残されていないことから、逆にその謎への関心が高まります。
(物理的年代測定はしていませんし、その予定もありませんが、個人的には・・・)











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by Ru_p | 2017-07-21 20:05 | アート・コレクション | Comments(0)

古今集の古筆(その2:素性法師)

伝 素性法師(三十六歌仙の一人)筆   17007 16×23

平安貴族文化の貴重な資料の様です。
以前、どなたか研究者の方が、朱でチェックを入れた形跡が見られます。
(紙料の劣化具合には、千年以上の歴史の風情も感じられ・・)
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勝手な想像による 文書の意味
  雲林院歌会での控え(私的メモ)
    記載日;寛平初年3月?日(西暦889年4月?;「寛平御時后宮哥合」以前の春で、京都の山桜が散る頃)
    記録者;素性法師(桓武天皇の曾孫/当時は雲林院に住んでいた

自己流での 読みと解釈
       赤文字:変体仮名部分を現代の仮名文字に変換
       青文字:濁点等を加え、一部漢字に直し、現代語風に変換

      
  雲林院にてさくらのちりけるをこそよめり
  雲林院にて 桜の散りけるをこそ詠めり
      
     素性法師
     素性(そせい)法師
      
    をイ 
 花ちらす風のやとりはたれかしる我にをしへよ行てうらみん
 花散らす 風の やとり(居所)は 誰か知る 我に教えよ 行て恨みむ
   (古今76)  
    さくらの花のちり侍りけるをみてよめる
    桜の花の散りはべりけるを見て詠める
      
      
     承均法師 貫之カヲヒ 紀文時カ子也
     承均(そうく)法師 貫之が甥 紀文時が子也
      
  桜ちる花のところは春なから雪そふりつつきえかてにする
  桜散る 花の処は春ながら 雪ぞ降りつつ 消えがてにする
   (古今75)  
    雲林院にてさくらの花のちるを見てよめり
    雲林院にて 桜の花の散るを見て詠めり
      
      
  いさ桜我もちりなん一さかりありなは人にうきめみえなん
  誘(いざ)桜 我も散りなむ 一盛り ありなば人に 憂き目見えなむ
   (古今77)  
    花モ一サカリ也花ノ盛リニ我モチリナン
    花も一盛り也 花の盛りに 我散りなむ
      
     世ニナカラヘハ
     世に 長らえば
      
    人ニウキ目見ヘナント云也
    人に憂き目見えなむ と言う也
      


後に古今集に載る有名な春の歌三首が、雲林院(かつては京都の桜の名所)の私的歌会にて初めて作られ披露された時の作者(素性法師)自身による記録の様です。

素性法師自作の一首(頭に〇印)と、承均(そうく)法師が詠んだ二首とを記録した文書で、その内容から素性法師にとって、承均法師は、恐らくこの日が初対面で、紹介された内容をも同時に記録した物の様です。

その、承均法師の身の上に関連する記述の部分には、素性法師が親しくしていた紀貫之の甥で、父は紀文時であること等、殆ど世の中に知られていない情報が記載されていますので、原本(真筆)であれば、歴史資料として重要な意味がありそうです。




ところで、三首目の「いざ桜・・・」の承均法師の歌ですが、もう一花咲かせてから自分の人生も散らせたいと言う意味もあるとすれば、出家した僧の作としては、何とも俗世間に未練を残している心情が見え、妙な若さを感じます。(読みの仮名を表音文字と見ると、幾つかの意味を曖昧に掛ける事が可能なので、そんな遊び心が求められ/この歌会では、他にどれほど参加者が居たのか不明ですが、作者はその場で歌にコメントを述べていた様ですね)
この日が承均さんの、歌会初デビューだったのでしょうか?その新鮮さ故に老いた素性法師が気に留めて、この歌を選び残したのかも知れませんね。

それが、親友の甥へのエコヒイキだとしても、また狭い貴族社会だけの出来事なのだとしても、千年前の人も現代人も、心はそれほど違わない様で、なんだかチョット親近感が感じそられうです。




この頃の貴族が使った紙は、おそらく「唐紙(中国から輸入した紙)」でしょうが、こんな良い状態で残っているとは、紙と墨って、非常に優れた記録媒体なのですね。
















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by Ru_p | 2017-06-23 20:14 | アート・コレクション | Comments(0)

伝説の仙人 (芦雪の1)

陳楠 洪流濟行図 長沢芦雪筆  16006 56*130 紙本肉筆
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「陳楠」は、伝説上の『仙人』達(約500人)を集めて紹介した『有象列仙全伝(校次:世貞輯/1526~1590)』と言う中国の本(全九巻の八巻目)に図像と共に載っています。
その図像は上の画とよく似ているので、おそらく芦雪は、そんな資料を見る機会があったと言う事なのでしょう。

これと似た資料が他にも幾つか世に存在するのですが、長い間に様々に編集が繰り返されたらしく、微妙に記述が異なるので、何れのどの部分が大元の資料に近かったのか、今では判断が難しいところです。

その『有象列仙全伝』の原文から、陳楠に関する部分を
下に抜き出して(異字体は修正)みました。

陳楠字南木号翠虚。
傳羅人。
以盤櫳箍桶為生。
後得太乙刀圭金丹法於毘陵禅師。
得景霄大雷琅書於黎姥山神人。
能以符水捻土愈病。
時人呼之為沈泥九。
時披髪日行四五百里。
鶉衣百結塵垢満身。
善食犬肉終日爛酔。
嘗之蒼梧遇郡禱旱。
翠虚執鉄鞭下漳駆龍須曳雷雨交作過三山大義渡。
洪流舟不敢行。
翠虚浮笠而濟。
行欽管道中遇群盗拉殺之瘞三日盗散復甦遊長沙。
衝帥節。
執拘送邕州獄數夕回長沙矣中夜坐或倉水銀。
越宿成白金常自言(関?)世四十五。
然人傳有四世見之者。
以丹法授白玉蟾寧宗嘉定間。
於漳入水而解去當日有葛縣尉在潭州寧郷見之。
翠虚與尉父相能。
因寄書潮州達其父計之即水解日。
巳復與其父相見。



【これを勝手に解釈してみますと】

陳楠は、字を南木・号を翠虚、及び泥丸(原文中「泥九」ですが編纂読取りミス?)と呼ばれていた。
傳羅県(今の広東省恵州市;ホンコンの少し北の辺り)の人。
盤(さら)・檻(おり)・箍(たが)・桶(おけ)を作る事が生業だった。
異なる不思議な術を伝授される機会があり、それぞれ会得していた。
その能力で、泥を扱い病人を癒やした事で、泥丸(九?)とも呼ばれていた。
髪を振り乱し、時には日に百数十㎞(中国の一里は約400mらしいので)も走る事があった。
酷いボロ着と垢まみれに汚れた身なりでいた。
犬の肉をよく食べ、終日泥酔していた。
干ばつで人々が苦しんでいる時には池に入り、鉄ので龍を連れだし、雷雲を起こさせ雨を降らせて解決させた。
洪水となり、舟が進めなくても、陳楠は浮かせた笠に乗り渡る事ができた。
旅先で盗賊に襲われ、死んでしまっても、数日後には元気に甦ってみせた。
(以下省略)

つまりは、不老不死と言われた人の荒唐無稽なお話。

ここでの、
傳羅;この地名は紀元前214年に設置され、紀元後280年(太康元年)に博羅県と改称されています。
鉄鞭;製鉄は、前600年ころから始まり、前50年ころからは武器も鉄製となり、後漢(8~265)の時代には、鋼も量産されていたそうです。

以上の事から,
「陳楠」が実在したのならば、前1世紀~後3世紀頃の人物だった、と推測出来そうです。
(二千年近くも昔ですと、まともな資料が残ってなくて当然でしょうね)
超人の存在への期待と憧れから、伝承には尾ヒレが加わっている可能性が高い事でしょう。


これは、芦雪がいかにも好きそうな題材で、思い切りよい勢いのある描線で、陳楠の不気味なキャラクターが見事に描かれています。(円山応挙も似た画題の作品を残していましたね;「波上群仙図」;1786年製作;無量寺蔵)

当時、こんな大胆にデフォルメされた画って大衆にも好まれたのでしょうか?

まるで漫画の世界を見ているようで・・・♪






これぞ 絵 空 事




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by Ru_p | 2017-06-02 18:03 | アート・コレクション | Comments(0)

月にひとり (芦雪)

 長沢芦雪筆 月下に烏図 17002紙本 305*108 
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円い月の手前に老木とカラスのシルエットが、墨の濃淡だけで簡潔に(迷い無く)描かれています。

カラスまでの距離は約40メートル?(標準的なカラスの体長と月の直径角との関係からの逆算にて想定)。この位の距離だと恐らく、月からの逆光のために細部まではよく見えなかった事でしょう。
(月夜って、月面が4パーセント位の反射率で太陽光を反射するらしく、けっこう明るい)

細かく再現する必要も無い叙情的な景色、観る者の想像力で様々な世界に見える画だと思います。


以前も投稿で触れましたが、カラスは生涯完全な一夫一婦、なのだそうです。
独り、手の届かない月を観入るこのカラスの後ろ姿から、失ったもう一羽の事を淋しく想い浮かべて沈んでいる、と芦雪には見えたのかも知れません。

動物や子供が大好きだった長沢芦雪は、一男二女の子供たちを四十近くなってから授かっていたのに、立て続けに病で失ってしまいました。(この頃は満五歳まで育たない子供が大半だった様です;徳川将軍家などの系図記録をも参考とした場合)


芦雪にとって、このカラスの姿が 彼自身と重なって見えたのかも知れない。
と思えて来ませんか?


(あくまでも自遊な想像で・・・ )












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by Ru_p | 2017-04-16 19:38 | アート・コレクション | Comments(0)

鬼の姿 (芦雪)

長沢芦雪筆 餅を食べる鬼   紙本 27.5×63 16016
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鬼は伝説上(架空)の存在なので、当然写生は出来ないでしょうが、どこかの画で見た記憶があれば似た画に描けるのかも知れません。既に平安から室町時代の鬼は、「鬼門」と呼ばれる北東(丑寅:うしとら)の方向の呼び名に由来して、角・牙・褌等を牛と虎の特徴を組合せた姿とされていたので、今日広く定着した鬼のイメージとも殆ど違ってなかった様です。

この餅を食べる鬼の図は、琉球の古い伝説を画題にしたと思われます。
琉球の舜天王の時代(12~13世紀頃?)
出来事として語り継がれて来た話で、18世紀(1745年)に編纂された沖縄の歴史資料 球 陽 の中でも、年寄りからの伝承として記述されています。
本土では、馴染みの薄い沖縄の昔話なのですが、琉球では、古くから日本(朝廷その他)との人的交流が盛んに行われていたので、その話が当時京都に住んでいた長沢芦雪(1754~1799)の耳にも届き、画題として扱われる事になったのかと思われます。(江戸時代には「琉球ブーム」もあり・・)

この鬼が食べようとしている大きな餅は、沖縄では鬼餅(ムーチー)と呼ばれ、邪気(鬼災)を払う縁起物として食される習慣が既に広まっていたらしく、おそらく芦雪は、需要の多い「縁起物」としてこの画を描いたのではないかと思われます。
(芦雪は、何故か他にも珍しい昔話を題材として多くの画を描き残していますが、今では、それらを見て想像を膨らませる以外に、真の作画意図を知る術は無さそうで・・・)

その歴史資料の 球 陽 には、親を亡くした兄妹の兄の方が人を殺し、その肉を食べる様になり、「鬼」として人々から恐れられてしまった事で、肉親としてそれを憂慮した妹が、自ら兄を退治する為に、兄の好物だった餅に鉄(「・・餅内装丸・・」)を入れて食べさせ、騙して崖から落として死なせると言う話(多少不自然な展開の悲劇)が漢文で記されています。
(その話は、後世沖縄の各家庭で、縁起物の「鬼餅」を旧暦12月8日に食べる習慣として広まった事の根拠の様でもあります)

ここで個人的には疑問が生じました。

餅の内に入れた「鉄(丸)」程度で、鬼を退治が出来たのでしょうか?
貧しい妹が、そんな不確実な作戦の為に稀少な「鉄」を使うのは不自然では?

何世代も伝承が繰り返されて来たのでしょうから、基の話と内容が変わってしまっている可能性が大きいでしょうし、編纂当時の琉球では平仮名(表音文字)は普及していましたが、漢字は未だ未成熟だったようですから、記録内容に怪しい部分があったとしても不思議ではありません。(文字の無かった琉球で漢字が通用し始めてから、あまり長くは経ってなかったので)

そこで、沖縄なら簡単に入手可能な毒性植物の蘇鉄(ソテツ)の存在が思い当たり、上の「餅内装鉄丸」が「餅内蘇鉄丸(実?)」の伝承ミス(読みも似ている為)だった可能性を想定してみました。

蘇鉄(ソテツ)は、18世紀以降の琉球では、毒を抜く加工方法が普及し、飢饉時の非常食として、保存しておいた種子などを食べる事もあったのですが、この鬼の時代(12〜13世紀頃?)にはまだ、食べれば死ぬ事がある 強い毒 (サイカシン)の植物だった(今でも牛が誤食して死ぬ例が多く、時には角が抜け落ちた例も有るそう)と思われます。
また、秋から冬にかけて朱色の実(種子)を成らせますので、この伝説の鬼の死んだとされる12月8日にも近く、つじつまが合いそうです。

更に、琉球にとって日本よりも繋がりが深かった中国では、蘇鉄(ソテツ)が「鉄樹」という名前で呼ばれていたそうですので、この話で単に「鉄」と混同されたとしても、無理も無かった事でしょう。


そこで餅の中身ですが、 「装鉄」の文字を「蘇鉄」に置き替えれば、
説得力の有る鬼退治ストーリーが 成立、   メデタシ


今まで誰にも指摘されていなかったとは、とても不思議。
(食べずとも、鉄なら重さで鬼に気付かれてしまうから)







もしこの鬼が昔話の通りなら、元の姿は人間で、それが醜く変わり果てていた事になります。
慢性的な不況下で食糧に困窮する最下層の人間が、生きるために人間を殺してその肉を食べてしまう様な事は、他でもきっと起こっていた事ではないかと思います。
ただ、おそらく芦雪ならば、そんな地獄絵図(※)や生々し過ぎる鬼人は、描きたくはないと思ったことでしょう。(芦雪の描く生き物達には、多くの場合に、どことなく可愛らしい雰囲気が感じられます)

この鬼、筋肉モリモリなのに、やんちゃ坊主の様なお茶目顔で、
立て膝もカワイイ

・・・・・・・・・おにーちゃん?!








描かれた人物は、往々にして描き手に似てしまうとも言われますが、
その頃の芦雪って、こんな雰囲気?  (まるで、謾画・・・ )





e0259194_12532629.jpg(※)この画の印は芦雪の寛政以降の作品に使われていた物の様ですが、摩耗が少な目なので、30代後半頃に押されたのでしょうか。(朱文蒲鉾形連印 A)

その頃の芦雪ですと、父親や幼い子供達を相次いで亡くし、暗く悲しい時期だったのかも知れませんが・・・・。








 

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by Ru_p | 2016-06-16 21:02 | アート・コレクション | Comments(1)

良寛の書 「・・兔角・・」

16015 48×131
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      口  足  身  手
      吟  着  着  把
      無  亀  空  兔
      聲  毛  華  角
      詩  履  衣  杖

   良
   寛




手に兔角の杖を把り
身に空華の衣を着け
足に亀毛の履を着け
口に無声の詩を吟ず

( 口に無声の詩を吟ずることは、普通はあり得ない行動ですが、そこにこの詩の意・・・? )

良寛さんの自作の詩なのですが、漢詩として見れば、前3行の文字には下の「寒山」(中国唐時代の伝説の奇人僧)が作ったとされる漢詩からの部分的な引用があります(仏教用語の文字や韻律で)。

身着空
亀毛履
手把兔角

擬射無明鬼

ここで共通する「兔角」「空華(花)」「亀毛」の3つの言葉は、何れもこの世に存在し得ない架空の物を指す象徴的な仏教用語なのだそうです。


日本の仏教は、「仏の教え」として伝わって来た経文を正確に写し(コピー)伝える文化が当たり前だったのですが、良寛さんは この詩を自身の独自の世界に取り込んで、『書』の面白さとして楽しんでいた様です。


ここでも、仮名文字風で日本的・・・ 抽象絵画風で好きな『書』です。




沢山の詩や歌を作ったとされる良寛さんなのですが、その『書』も度々(複数回)揮毫される事があった様で、今日でも多くの作品が残されています。
ところが良寛さんは、それらを手元に控えて残しておく事が出来ていなかったらしく、書の揮毫の度に部分的に文字の変更が見られる事があります。(他の歌人でも、同様のことはあります)
良寛さんが作った詩に関しては、多くの研究が行われて来たのですが、書かれたその文字は、特に癖(簡略化などのアレンジ)が強く読みとり辛いこともあるので、それらの別バージョンの内容は、今まであまり多くは取り上げられることがなかったようです。
良寛さんは同じ詩を書いていたつもりだったのかも知れませんが、控えも持たずに何十年も前の詩を思い出すとなれば、細部の変更が生じたとしても不思議な事ではありません。恐らくご本人は、詩の論理的に微妙な構成要素よりも、『書』としての出来映えの方が関心が強かったのではなかったのか(?)と思われます。









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by Ru_p | 2016-05-22 19:26 | アート・コレクション | Comments(0)

良寛の書 「・・夜雨・・」

16014 48×131
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夜雨袈裟老暁烟無
人(問※)消息年々又年

 釋良寛書


長い修業時代の迷いの気持ちを顧みた詩のようですが、良寛さん自作の漢詩です。

※当初は、下の様な五言律詩の構成だったようです。(朱色が共通文字)

自参曹渓道
千峰深閉門
藤纒老樹暗
雲埋幽石寒
烏藤朽夜雨
袈裟老暁烟
無人
消息
年年又年年


おそらく 晩年に、好きな(?)文字だけを並べて『書』を楽しんだのでしょう。

(漢詩の制約も越えられる、自由な人の・・・ )


この『書』も、漢文なのに仮名の雰囲気があり、抽象絵画のような魅力もあり、好きです。












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by Ru_p | 2016-05-22 18:30 | アート・コレクション | Comments(0)

良寛の書 「・・兄弟・・」

16013 48×131
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 到 又 生 我 一 一 〳 余
 處 見 涯 見 人 人 〵 郷
 亡 其 如 其 愚 辨 心 有
 命 聰 有 愚 且 而 各 兄
 趨 者 餘 者 訥 聰 殊 弟


「ここに人柄の良い兄弟がいて、愚かで口下手な方(の良寛さん)は、気持ちに余裕を持って暮らし、利口で能弁な方(弟の由之)は、常に忙しく走り回っている」
という様な意味なのでしょう。
( 小利口で口が達っても、必ずしも人生が豊ではないと・・・ )

※「訥」 トツ;「口ごもって、つっかえながら言う」の意味。

良寛さんが、弟に家督を譲って退いた後の実家の没落ぶりを知り「自分と弟との性格を比較し、人生の不可解さを感じながらも、本当に豊かな生き方はどちらだったのかを問うかの様な詩です。

4歳下だった弟の山本由之は、文化7年(1810年:由之48歳の頃)には名主職を失い、家財没収・所払いの処分を受け、謹慎せざるを得ない状況に追い込まれていたそうです。

ここの詩はその頃に良寛さんが作ったらしいのですが、この『書』は、後年に思い出して書き直した物ではないかと思われます(微妙に文字の異なる別バージョンが何点かあるようです)。五言詩の形なのですが、まるで仮名文字を見る様なデフォルメには「日本的」な味わいを感じます。

極めて大胆で簡潔な(論理的でもあるべき)文字は、個性が強く読み難いのですが、全体を抽象絵画(か?)として眺めると、妙に調和とか躍動感があります。

良寛さんは、本来中国から伝わった漢詩であっても、その自由で大胆な感性でアレンジして遊び楽しんでしまっていた様です。


この『書』は、文節の切れ目、改行の位置など細かなバランスなどを超越して、更に何かを語っています。



身近な肉親の消息は、誰でも当然 気に・・・











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by Ru_p | 2016-05-22 15:00 | アート・コレクション | Comments(0)

蛙・・・岩 (仙厓)

仙厓義梵筆 岩に蝦蟇(いわにがま)図 自画賛  14006    58×137
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仙厓さんは、石や岩にとても関心があった様で、珍石の蒐集が大の楽しみだったそうです。
保護色で周囲と一体化したガマ蛙の肌にもそんな魅力を感じていたのかも知れません。

仙厓さんの別の有名な画の賛(自画賛)に「坐禅して人が仏になるならば」という言葉(坐禅するだけで仏になれるのなら蛙はとっくに・・・という意味の)がありましたが、この世の万物に仏性が宿っている、という気持ちで蛙を見ていたのでしょうか。

大自然が創り出す『奇岩』の造形に、時として深い神秘性を感じさせられることって同感出来ますし、仙厓さんの画にはいつもながら 『かわいい』 を感じてしまい飽きません。










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by Ru_p | 2016-02-21 15:35 | アート・コレクション | Comments(0)

仙厓の 福と福

仙厓義梵筆 彼岸河豚図 自画賛  16005 49x36

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仙厓さんの描く生き物のカワイイ表情や奔放な文字には、人間愛的優しさがあり、好きです。

自画賛には、

唵阿毘羅 千いと 福れた 彼岸福 

(唵阿毘羅 ちいと ふくれた 彼岸ふく)

冒頭の「唵阿毘羅」の字は、唵阿毘羅吽欠蘇婆訶(読み:オンアビラウンケンソワカ)と言う大日如来(胎蔵界)を表す「真言(言葉の音が仏尊を現すとされる「呪文」)」の先頭の四文字の様です。( 相変わらず、巧さを捨てた奔放な筆遣い )

仙厓さんは、禅宗の坊さんでしたが、有名な〇△□の図をも描き残している事から、真言(的宇宙観;三角が火、円が水、四角が地を表わす;元はインドから伝わった五輪思想で、宇宙の構成元素が「空・風・火・水・地」とする)にも知識と関心があったと思われます。

春の彼岸()の頃に大漁となり、その頃までが旬となるヒガンフグ(フグ目 › フグ亜目 › フグ科 › トラフグ属;別名=マフグ)ですが、水揚げ時に歯を摺り合わせて出す音(フグが唱える声?)が、戒律によって食する機会も無かったかもしれない仙厓さんの耳には「真言」の様に聞こえた(仏性を感じた)のかも知れません。
古来インドの初期仏教で、「空」は「膨れ上がった」「うつろな」を意味するそうですので、河豚の膨れた姿に、その宇宙観の「空」を重ねて見たのかも知れませんね。

仙厓さんのいた福岡(から山口方面に掛けて)では、フグ(河豚)を濁らずにフクと発音するので、読みの同じ「」の字を当てて使う事があった様で、ちいと膨(フク)れたにも更に「」を掛けてみたのでしょう。

が重なる 目出度い画の様で、、万物に禅の宇宙・・・なので『禅画』?

※彼岸:春は、春分の日(昼と夜の時間が最も近づく日)を中日として、前後各3日を合わせた7日間の事です。
 今年(西暦2016年)の場合、3月20日が春分ですので、春の彼岸は3月17日~3月23日となります。



フグの背の斜め等間隔の白筋は、畳の上に紙を置いて輪郭線を描いた仙厓さんが、畳編み目の谷部分で墨がかすれる事()に気付き、急遽角度を調整してそれを背中の柄として利用したものと思われます。意図的であろう根拠は、直後に同じ墨で書き加えた画賛の方には、かすれが無い様ですので・・



※下敷きの畳編み目の筋と墨跡とを描画効果に利用する事は、江戸時代の他の絵師でも行なわれていた事の様です。















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by Ru_p | 2016-01-29 23:47 | アート・コレクション | Comments(0)


妄想猫の起末具連記


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